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2015年 02月 26日
「アレクサンダー・クロフト・ショウと福沢諭吉の関係から見る19世紀後半の日本」 その3
ショウが来日した頃の福沢諭吉について書く予定でしたが、その前に、明治維新前後の日本と朝鮮・中国の様子を見ておいた方が理解しやすいと思われます。

明治維新と言えば薩長連合と言われるほど薩摩と長州の力が強いのですが、どちらも維新の5年ほど前に攘夷の戦争を経験しています。薩英戦争はほぼ薩摩の勝利、長州は外国連合艦隊に敗北します。「攘夷」と言えばこのような西洋列強に対する排斥運動と、私たちは学校で教わってきました。しかし、維新の志士達の「尊皇攘夷」思想には、当初から「征韓論」が内包されています。その源流は、長州で強い影響力があった吉田松陰を見なければなりません。

1840年のアヘン戦争の結果を知っていた志士達は、西洋列強に対抗する挙国一致体制の必要を感じていました。松蔭の説く「琉球の日本領化、朝鮮の属国化、満州・台湾・フィリピンの領有」というアジア進出思想に影響され、列強と並ぶ侵略によって国力増大を考えます。維新後の新政府対外方針は、既に1859年松蔭が死ぬ頃には大きな骨格が出来上がっていたといえるでしょう。その外交思想を代表するのが「征韓論」であって、「攘夷」とは単に西洋人を殺せと言うような呼びかけではなく、むしろ「中華と夷狄の関係」を考えた方がわかりやすいかもしれません。

今はどうなのか知りませんが、私が子供の頃、「西郷隆盛は征韓論に破れて下野しました」と教わり、どちらかと言うと西郷が征韓論を主張していたと理解していました。征韓論「で」破れたのか、征韓論「側」に破れたのか曖昧だったように思います。内容や道筋を考えない「歴史暗記」教育の害ですね。実際は、明治初期の指導者達の多くは征韓論では一致していて、戦略の違いか、あるいはほとんど主導権争いの末の政変と見る方が近いでしょう。ちなみにM6/1873年国立銀行発行十円紙幣の裏は、神宮皇后馬上で指揮するの征韓図で、その後も最初の紙幣肖像に神功皇后が使われています。このことからも判る通り、明治はその出発点から強く大陸進出を国是としていました。

安政の不平等条約に対し、新政府はすぐに条約改正を働きかけるために欧米各国に使節団を送りますが、国力の差を見せつけられ、朝鮮や台湾を属領化することで国力をつけ、西洋列強と対等に力を持とうとします。岩倉使節団帰国がM7/1873年、直後のM7/1874年には台湾出兵、M8/1875年に江華島事件を起こします。江華島事件はペリーが日本に対して行った砲艦外交を、さらに荒っぽく、実際に攻撃、破壊、占拠を含む軍事行動で、その後結ばせた日朝修好条規は、日本が強要された不平等条約をさらに強化したものでした。








by maystorm-j | 2015-02-26 08:27 | 社会
2015年 02月 21日
「アレクサンダー・クロフト・ショウと福沢諭吉の関係から見る19世紀後半の日本」 その2
前の記事の続きです。前掲の年譜をたどりながら話を進めたいと思います。

アレクサンダー・クロフト・ショウが生まれたのは維新の22年前。1846年カナダのトロントで生まれましたが、当時カナダはまだ独立する前で、イギリスの植民地カナダと言うべきでしょう。父方は英国軍人の家系で、父親は連隊長だったと言われています。トロントのカレッジを出て、イギリス国教会の司祭になります。カナダが自治領になるのが1867年で、その数年後にはイギリスに渡り、国教会が中国・日本に派遣する宣教師に選ばれています。

国教会にはカソリックに近いハイチャーチとプロテスタントに近いローチャーチがあり、ショウはハイチャーチの海外宣教組織SPGから派遣されることになりました。SPGはケンブリッジかオックスフォードの出身者を派遣したかったようで、経歴から見るとショウは抜擢と言えるでしょう。SPGには選抜面接の記録はありますが、履歴は残っていないそうです。ローチャーチ系の宣教組織CMSはM2/1869年にまだ禁制下にあった長崎にエンソーという宣教師を派遣し、布教を行っていて、その報告はイギリスで読まれていたようです。SPGがライトとショウを派遣するのは、キリシタン禁制の高札が撤去された直後です。

ショウはM6/1873年にライトと共に来日し、英外務大臣から公使館付き牧師という重要な公職に任命されます。来日後の5ヶ月間は他の宣教師とともに、大松寺に合宿し日本語を習得します。その時期から福沢諭吉の子どもが英語を習いに訪れ、直後に福沢は自宅横に洋館を新築し、ショウを住まわせます。M7/1874年5月には、福沢はショウを3年間雇い入れると言う届けを東京府に提出しています。二つの家の間には橋がかけられて、行き来出来たと言われています。その後、福沢が死ぬまで27年間の親密な交流が続きます。ショウには来日の前後から、宣教師としては異例のことが続いていたのではないでしょうか。

後で述べますが、福沢という人間は宗教をまったく信仰していません。明治の初めから10年代前半までは、キリスト教を排撃しています。M17/1884年に宗教を容認しますが、そのスタンスは、庶民(百姓・車夫の類い)は勉強させずに宗教道徳を押し付けて、反抗しないようにと言うものです。内村鑑三は「福沢は宗教を利用するだけの、宗教の大敵」と呼んでいます。宣教師として派遣されたショウと宗教の大敵福沢の生涯にわたる親密さは、どこから来るのでしょうか。処遇の異例さと同時に、精神的な意味でもその関係には理解しがたいものがあります。

その後、条約改正運動で連携をとるなどショウは政治的な活動を行いますが、派遣された翌年には既に、SPG宛の報告書に条約改正問題が書かれていると、白井尭子氏は報告しています。前の記事で、ショウが日記や回顧録・自叙伝などを残していないのではないかと書きました。しかし、ショウは筆が立たないわけではなく、白井氏によると、膨大な報告がマメにSPG宛に送られていたそうです。その中には福沢による庇護について、多くの記述があるようです。一方、それほど親密な関係でありながら、福沢の文章にショウが登場することはひじょうに稀だそうです。福沢はたくさんの本を書き、新聞を自ら発行し、社説や漫談に筆をふるっています。二人の関係には、なにかひどくバランスの悪い印象があります。

M8/1875年にショウは英国人女性と結婚しますが、その際にSPGは難色を示し、福沢が結婚の援助をしています。M10/1877年には、芝に新居を建築していますが、その時も福沢と公使パークスの助力を受けています。

次回はショウが来日する前後の、福沢について書きたいと思います。



by maystorm-j | 2015-02-21 18:39 | 社会
2015年 02月 19日
「アレクサンダー・クロフト・ショウと福沢諭吉の関係から見る19世紀後半の日本」 その1

2月19日、軽井沢の史友会(歴史愛好会)で1時間余話した資料です。拡大しないと見えないと思いますが、中心に年代、左にショウ、右に福沢の年譜を記し、左右に軽井沢と日本、朝鮮・中国の主な出来事を書いてみました。 
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はじめに、なぜアレクサンダー・クロフト・ショウに注目したのかと言いますと、私が36年間住んできました軽井沢では、ショウは軽井沢の救世主であり、言わば神格化された存在です。明治維新後、中山道の通行が減り、寂れていく軽井沢に別荘文化を持ち込み、現在の繁栄の礎を築いた大恩人という扱いです。

歴史の中で偶像化された人物の実体を探って行くと、意外な面が見えてくるということはよくあります。本人の意図とは別に、後世の人の都合で偶像が作られることはよくあることです。私が子供の頃、乃木大将はすばらしい軍人とされていましたが、今では日露戦争で過大な犠牲をだした、むしろ無能な軍人と言う見方が大勢です。

では、ショウはどんな人物だったのでしょうか。ショウを誉め讃える文章は軽井沢には無数にありますが、ショウ本人が書いたものや、発言を克明に記録したものなどが見つかりません。当時に限らず、異郷の地に赴き、目覚ましい仕事をした人は、日記や回顧録、自叙伝などを残しています。異なる価値観や法体系の中で仕事する上で、後々自分の正当性を証明したり、嫌疑をかけられた際の申し開きのためや、故国に帰ってから出版する目的など、動機は様々でしょう。エキサイティングな体験を、一時的にではなく長期間経験するのですから、記録しておきたいと思うのは自然です。

ところが、軽井沢ではショウがいつどこに来たとか、どこに泊った、どこに別荘を建てたなどの研究は盛んですが、宣教師にもかかわらずどんな言葉を伝えたか、どんな考えだったか、どんな文章を残したのかなどの、言わば「ソフト」面の記述が見当たりません。偶像の表面だけを見せられている気分です。30歳で軽井沢に移り住んだ当初から、なんだか変だと感じてはいました。

明治10年に天皇の巡幸があり、中山道の碓氷峠越えの山道最後の大きな出来事です。その後、軽井沢は衰退の一途をたどり始めていたのでしょうか。下の年譜の縦2列目、軽井沢の様子を見ていただきたいのですが、明治6年1873年には富岡製糸工場へ信州から多くの女工が軽井沢を通って行き来しています。翌1874年には既に鉄道敷設の調査が始まります。ショウ以前にも多くの外国人研究者が、生物や火山の調査に訪れています。殖産興業の波は軽井沢にも伝わり、実業家による大規模な土地の購入と植林や大規模農業が試みられ、国の開拓計画や陸軍の保養所などもつくられています。交通も、碓氷新国道が出来、直江津と高崎の両方から軽井沢に向けて鉄道が作られて行きます。M13/1880年、追分宿には人力車が70台、軽井沢宿(旧軽井沢)は7台という記録を見ると、寂れたのは三宿(軽井沢・沓掛・追分)のうちの軽井沢宿だけだったと考えられます。ショウが軽井沢を訪れた1885年頃は、馬車、鉄道馬車、アプト式鉄道へと、軽井沢がめまぐるしく変化して行く新しい時代だったと見るべきでしょう。その背景を見るだけでも、「軽井沢の救世主」という偶像は色あせてきます。

(長くなりますので、続きは次回へ)
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by maystorm-j | 2015-02-19 21:22 | 社会