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2014年 05月 06日
雑感/吉田司を読む・・・下下戦記
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左の花は和名キランソウ。ですが、私には「地獄の釜の蓋」という別名の方が馴染みがあります。地面にべったりと這うその形状からも、この名前は一度聞いたら忘れられません。シソ科の花の多くは穏やかな色合いですが、この花の紫と葉の緑はくっきりと深い色です。地面に円を描いて広がるこの「釜の蓋」を開くと、何が飛び出して来るのでしょうか。写真右側は近くで見たヒメオドリコソウの群落です。同じシソ科の花です。

伊豆の踊り子のようにまだ蕾ながらも個として立つことはなく、みんなおんなじ顔して並んでいます。ラインダンサーでしょうか。禁じられた蓋を開けたら、明るい歌に合わせて次々と踊り子が飛び出して来る幻視。

昔々のこと、水俣でユージン・スミス夫妻に会ったことがあります。胎児性水俣病患者の若い女性を風呂に入れる母親の写真に、若者の多くが打ちのめされます。母親から水銀を我が身に移し、次の子の症状を軽くした少女達の写真は、先天性の障害を持って生まれた子どもを「宝子」と呼んでだいじに育てたという言葉とともに、都会育ちの私を何かに駆り立てる力が有りました。あの写真の母子は、十字架から下ろされたイエスと母マリアだったのでしょう。

「義によって助太刀」するだけの学生にとって、自分より少し若い胎児性水俣病の患者達は神々しく、同じ人間として向き合い行動していなかった気がします。助っ人に出来ることなんて限られています。夜明けとともに裏切ることを予告されていた存在でした。

この1年の間に飛び飛びですが、吉田司さんを読んでいます。正統派の水俣病関係者にとって、あるいは受け入れがたいライターかもしれません。青年になった多くの胎児性患者と、人間同士のつきあいを続けた記録「下下戦記」という不思議な書名。ルポとも言い切れず、フィクションと片付けることもできません。神ではなく人間である胎児性患者と、当たり前の日常として地上・海上で繰り返される悪戦苦闘と抱腹絶倒の日記なのでしょう。

下下戦記の後で読んだ、同じ作家による「宮沢賢治殺人事件」。二つの著作に共通するのは、作家の視線で、後方斜め30度から人間を見る。この視座から見えるものは明るい正面の顔ではなく、暗い後ろ姿を見つめながら、肩越しに行く先が僅かに望める位置。水俣では作家自身もついて歩き、宮沢賢治では時間を遡ってなんとかして裏に回ろうとする。吉田さんの、いかなる角度であれ人とつきあいきるいきかたが、私には欠けている。
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by maystorm-j | 2014-05-06 05:48 | 遊び | Comments(0)