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2016年 09月 24日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その13
d0164519_08324991.jpg岩手県の沿岸部で、年輩の農業者による農産物を中心に産直販売所を経営する人と、ツイッター上で議論を展開しました。きっかけは、みなさん、都市から地方へ動き出しませんか?不便は、都会では手に入れられない「豊かさ」がある。もう地方でも情報は都市と同じ。』と言う呼びかけに対して、私から返信を送って始まりました。先方の書いた内容を勝手に転載するわけにはいきませんので、話の流れが解るていどの要旨(『 』内)を入れながら、私の発言を転載します。
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流入人口が多い軽井沢でも、田舎の豊かさを楽しんでいるのはリタイア組の年寄り新住民。10年で体力が続かなくなる。(流入する)若い人は都会と変わらない飲食とサービス業に集中し、特色のある製造業は衰退。働き盛り世代(35〜50歳)は、子どもの教育環境が不安。ネット人口は少なく、本屋は一軒もない。

『自然が豊かで教育環境はいいはずですが』

50年前と違い、今は大学進学が50%。二人都会の大学へ出すと、毎年500万かかる。都会と地方の所得格差を考えると、かなりきつい。親は自分の理想を求めて地方へ行っても、子どもには子どもの生き方があり、親を肯定するとは限らない。自然の豊かさは年とって判る事が多いかな。

そのまま都会にいれば(大学に)行けたのにと子どもは思う。無理をしても、こどもには(社会人になる時に)有利なスタートを切らせたいと思う親。(実情は)奨学金数百万円の借金を背負って社会人に。(働き盛り世代では)単身赴任が無難な選択。地方は生産の場より販売市場と見られがち。

『奨学金や苦学は自信につながる』

非正規雇用化が進む若い世代の就職事情では、300万円の奨学金返済はきつい。地方の工場は海外へ、地域商業から大規模流通企業の販売市場化。暮しを主導する役場も、経済を主導する地方銀行も学歴社会という構造を変えないと、新しい経済モデルが見えてこない気がします。

『起業してお金はなくとも幸せな人生。幸せの形の多様化』

都会から地方への移住。(退職金と年金のある)リタイア世代は身軽。若い世代も仕事があれば比較的自由。30代後半〜50は、都会での暮らしを続けていれ不要な苦労を、自分の幸せを求める事で子どもにかけてしまう事を躊躇する。30で信州に移住し、たくさんの起業を見てきました。


地元の人が起業する場合、周囲の関係に支えられる。それでもリスクは大きく、多数の成功例も悲惨な失敗例も見てきた。都会から移住して起業する場合、ゆとりのある高齢者は半分遊びで、若い人は儲からなくても体力で乗り切る。失敗しても転身可能。壮年期の移住起業は容易でない。


2年前の文章なので、その後変わった事もありますが、時間がありましたらご参考まで。 
http://maystormj.exblog.jp/21001859/


『信州は、いまの東北に起きていることをもう経験?』


(信州というよりは)軽井沢では人口の何倍もの購買力があるため、経済活動の様々な要素が極端に先鋭化して短時間に現れる。「幸せの形も多様化」は重要なポイント。「最大多数の最大幸福」から「多様な個人の最適幸福」へ意識を変えて、画一的大量生産大量消費から、個性的消費が主導する生産販売へ転換。


(現在の)商品経済では価値観の画一化が進む。しかし消費人口の少ない地方で、(商店に)あらかじめ多様な商品選択を用意するのは困難。多様な消費の側が最適な生産を促す、オーダー生産を含む回路が望まれる。生産販売消費を見渡せる位置にいる方々の考えを聞きたいです。


『高級品ではなく小さな農業が基本の商売。壊れた町で人がどう動くかを考える』


一人で細々続けてきた私の仕事は(農家の産直)より小さい。製品単価は高いが、上流階級には売れません。軽井沢ではほとんど売れない。客層は上が5%。中の上が15%、中の中50%、中の下25%、下が5%。かなり無理をして買っていただいている。(その客の)期待に応えられているか常に気がかり。


小規模自営業が「安かろう悪かろう」を製造・販売していては、大規模量産量販資本に太刀打ちできるはずがない。客は(価格が)高いなりの満足が持続するか、それぞれの幸せを感じられるか。個性的で高い消費の期待に応えられるのが小規模自営の強み。そのためには、スキルアップとシステム構築。


『JAの規格にあった製品を大量生産して大規模にやることは収入に繋がりますが・・・隙間の生産物や行事食、大量に生産できないものにもマーケットが』


隙間製品も行事食も狙いは正解だと思う。他にないものなら、2倍の値段を付けてはどうだろうか。農家には倍の価格でも満足するものを作る楽しさとプレッシャー。販売者にはしっかりとした情報伝達、製品説明、客の反応のフィードバックが求められる。私は一人で両方、四苦八苦の連続。


『値段を高くはできないです。ばあちゃんの作ったものを自分は作らないけれども食べたいと言うなんともいいがたい想いが産直を後押し』


今日、農協の直売店へ。スーパーより安いではなく、質の良さを期待。産直=安価では、産直店間で負のスパイラルに。農産物はもともと季節や天候で数倍の値動きがあたりまえ。安くないと売れないというのは思い込みでは。とりあえず必要な安いものと、高いが他にはない高品質の併存?


『産直では値段を決めるのは生産者、そこの意識が変わっていかないと難しいです』


エキサイティングな議論につきあってくださり、ありがとうございました。思いを言葉に紡ぎだせる人は本当に少ないです。四国の「葉っぱビジネス」が話題になった事がありました。生産者の一人の意識が変わると流れが変わるかも。


『葉っぱビジネスには開業時に注目。農家に本やDVDを紹介した』

『産直が生産者を作り出せて、生産者が売り手の意見を聞いて協力してくれる事で活性化』

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以下は、東北の同じ市内に住む年配男性(産直のお客)がツイッター上に書いた『産直は新鮮でなければだめ』という主張に対する私の返信です。


魚も野菜も、高品質高仕入れ価の品を、常時多品目揃えるのはリスクが大きい。せっかく産直は生産者・消費者双方の顔が見えるのだから、販売者を介して、「明日、AさんのXXとBさんのOOが欲しい。倍の値段で買うから最高のものを」と(消費者側から)オーダーしたらどうなるだろうか?


オーダー制作の場合、お客様の期待する以上のものを作らねばという意識が強い。展示販売品と同じ価格ではきついが、具体的希望をかなえるため、新しいデザインや機能、技術の開発につながるケースも多い。倍の値段になるなら、期待を大きく越える可能性。消費が牽引する生産


遠野の道の駅には行った。小諸の西にある「雷電くるみの里」と同じタイプ。高速のSAにも時々このタイプ。客は旅行者がほとんど。産直の生産を引っ張るのは、余裕がある地元消費者の具体的要求ではないか。退職組、学校・保育園の先生や病院・役場職員などが牽引役に。


(勤め人に帰宅時間と産直の営業時間が合わないて言う点について) 退職組はOK。勤め人はオーダーを入れて、帰りに受取る。遅い場合はロッカーに。土日もある。やりかたはいろいろ。その手間に見合う高付加価値商品が提供できるかが問題。地域の中流消費者を狙うこと。野菜宅配農家・業者はそれをこなしている。送料がかからない分、有利。


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以上、切り貼りの構成で解りにくかったかもしれません。予告なしで、いきなりの議論に適確な応答をくださいました産直経営のHさん、ありがとうございました。


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by maystorm-j | 2016-09-24 08:39 | 社会 | Comments(0)
2016年 09月 22日
G7交通大臣会合の軽井沢誘致は誰のため

d0164519_14245943.jpg前線が列島から少し南下して、大陸から高気圧が移動してきたせいでしょうか。気温が12度台まで下がるようになり、連日の雨が重なって9月としては寒い日が続いています。お盆あけからほとんど残暑と言うほどの暑さはなく、例年より活発な秋雨前線が張り付いています。今年の秋は暑いと気象庁が発表し、地球温暖化を言いたいテレビのお天気おねえさんはそのとおりにおしゃべりしているようです。今年は面倒になり、朝顔の種は苗床で作らず、去年のこぼれ種が発芽するのにまかせていました。春に芽生えたものは成長できず、梅雨に入って発芽したものが、細々と今ごろ地際で小さな花をつけています。


今朝は明け方まで降っていた雨が1時間だけやんで、6時から町内の清掃。べたべたの濡れ落葉を掃いても、さほどきれいにはならず、これから落葉期に向って、無駄な苦労です。週末にG7交通大臣会議があるので、きれいにしておきたいのは分かりますが、こんな町外れまで会議に集まった人が来るとも思われません。町ぐるみで歓迎という格好にしたいのでしょうが、役場周辺の一部の人以外は関心もありません。会場はタクシーも不要な駅隣のプリンスホテルですから、旧軽井沢にさえ人が流れることはないでしょう。まして、人口の多い中軽井沢周辺、南側の農業地帯やJRで2駅離れた追分地区など、何の恩恵もなく、交通規制・交通渋滞で迷惑するだけ。誘致のために町の予算を使い、町民、役場職員や警察官の労力を供出し、利益はホテルとせいぜいその手前に広がる同じグループのショッピングモールに落ちるだけ。町民はちらっとテレビに映る我が町に、ちょっぴり自尊心をくすぐられるかもしれません。町長は内外のお偉方に歓迎の挨拶かなんか述べて、自分も偉くなった気分になれるかもしれません。今時、5月のサミット本番の結果を振り返るまでもなく、G7が世界の平和や人々の幸福に貢献する会合だと思っている人はあまりいないでしょう。軽井沢は昔から西武資本・プリンスホテルの企業城下町です。新幹線軽井沢駅に接する南側の広大な土地を一つのグループ企業が所有しています。今回もお殿様に貴重な町税と労役を吸い上げらることに。


西武グループの中核でプリンスホテルを保有するコクド(国土計画)は1920年の操業以来、一度も法人税を払った事がないと言われています。


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by maystorm-j | 2016-09-22 14:32 | 社会 | Comments(0)
2016年 09月 19日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その12
軽井沢に住んで38年あまりになります。当時は、都市部を除く信州の町に都会の人間が移住して、仕事と子育てをすると言うのはまだまだ珍しい出来事。ペンションブームが起きる最初の時期にあたっていたので、軽井沢で2番めと3番めのペンション起業者家族2組と私が、軽井沢への最初の移住家族と役場で言われました。もちろん、地元銀行など大きな会社や官庁の出先機関などの転勤組家族は以前からいたでしょう。都会に出ていた人がUターンしたケースもたくさんあったと思われます。そのような関係性を背景に持たない移住は珍しかったという事だったようです。子どもの小学校や保育園に行くと、特殊な存在だという事が実感できました。

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軽井沢のように、有史以前から交通の要衝であり、大動脈中山道の大きな宿場3ヶ所、鉄道の時代になってからも信越本線3駅と言うのは、当時の人口1万人あまりの小さな「町」としては別格。外の社会との交流が活発な地域である事を象徴しています。にもかかわらず、あるいはそれ故かもしれませんが、軽井沢に来て感じた事に、街場の家々が小さい。寒い地方にもかかわらず、簡素な作りで小規模な家が道路沿いに立ち並んでいます。東隣の上州群馬では、背の高い屋敷林に囲まれた大きな家が多く見られます。信州でも、他の地域には向井潤吉の絵に見られるような、(さすがにかやぶきは当時も少なくなっていましたが)、貧しくとも人々を大きく包み込むような家、代々受け継がれ家族の歴史を感じる家があります。軽井沢の家はどこか東京で見るマッチ箱のような家、別荘建築も旧軽井沢の一部に見られる旧華族、大政治家や財界人の別荘を除くと、周辺部ではやはり一代限りの夏だけの家という作りでした。旧軽井沢銀座通り以外には、間口が狭く奥行きが裏の通りまで続く伝統的な商家は見られず、表通りに面した壁だけがりっぱで、横も裏もぺかぺか、裏には不要品の山が積まれている安っぽい商店街の造りです。

都会の高度成長経済、めまぐるしいスクラップアンドビルドが、信州の小さな町に持ち込まれた結果、家というものの意味が変わってしまった。多くの人が集い、安息と同時に生業の場として作業し、長く使い続けるものではなく、活発だが入れ替わりの激しい商業や、交通、建築などの外部の仕事に出かける個人労働者と学校に通う年齢の子どもが夜を過ごすという、都会の家と同じ機能になっていた。家庭にとっては最大の富といえる家が、耐久財でも、高機能でもなく、一時的で単機能の消費材になっていた。別荘と同じで、代替わりや家族が移動するたびに、一世代の少ない貯金とローンで建て替えられる消費材としての家。

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富がどうすれば蓄積し、暮しが豊かになるのかを、これまで個人の消費行動が主導する生産という視点を中心に考えてきましたが、ここで個人から小さな集団の消費に視点を移して考える事も出来ます。家という富を集団で共有する事で、家の高品質・高機能・高耐久性が得られるのではないか。集団内の個人や小家族のプライバシーを守りながら、全体としては使い勝手が良く、少しずつ構成員が入れ替わっても長期間維持される家は、最初に充分高度な設計、信頼できてメンテナンスも任せられるオーダー施工、共同管理体制など、小さな集団の公共意識と共助能力につながるでしょう。既存の家の貸借シェアリングは既にかなり見られ、資金を分担する共有も試みられています。都会では車や自転車のシェアもあります。高価格消費材の場合は、共有する事で得られるメリットが大きいかもしれません。

地方財政は逼迫していますし、国レベルでも借金財政から均衡財政へとはたしてソフトランディングできるのか、クラッシュが起きるのか判らない状態ではないでしょうか。暮しを守るためには、民間に高品質で持続性の高い富を蓄積しておく必要がありそうです。官に頼らず、民の間で富の生産、販売、消費、蓄積の流れを作ること。個人、小家族だけではなく、小集団でその富みを共有する方向も有効ではないかと考えてみました。

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by maystorm-j | 2016-09-19 07:39 | 社会 | Comments(0)
2016年 09月 16日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その11
気象庁のサイトで天気図を見ると、例年通りの秋雨前線が列島南岸に張り付いていますが、周囲の気圧配置は複雑です。梅雨時から見慣れない気圧配置が続くと思っていました。小笠原気団(太平洋高気圧)が発達しないまま、梅雨前線が消えて夏に。台風は夏型のコースをとらず迷走。どうも、ジェット気流(偏西風)のコースが変化しているようです。先日、気象庁はラニーニャの発生を発表しました。二酸化炭素の増加につれて、気温はまっすぐ高くなり、それにともなって異常気象が頻発すると刷り込まれてしまった人々には、日々変化する気象現象を見ながら、その背景を探るという意識は起きないようです。温暖化のせいだと決めつけて、思考は停止。同調軸が設定されると、一つ一つ疑って考えるのは面倒なのか、軸から外れる事が不安なのか、子どもの頃から「みんなと同じ」です。まれに赤やピンクのランドセルを背負った男の子がいると、「オッ!やるじゃん」と言いたくなります。

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昨年、安保法制が国会を通った直後に、共産党から野党共闘と国民連合政府が提案されました。国会内外における反対運動の敗北。国民の過半数が反対や危惧していたにもかかわらず、なぜ運動が負けたのか。その反省、検証から新しい運動の可能性を探る思考と議論を経ずに、いきなりその日のうちにトップダウンで次の方針が下される不快感。内容以前にその事だけで不愉快。さらに、市民運動が議論を経ないまま、拍手喝采でその結集軸に同調していく。これのどこが民主主義なのだろうか。ある会合で今こそ統一と団結が必要なんだと説く論客に対して、議論抜きでいきなり連合政府まで提起されて市民が同調する流れに懸念を述べて、「統一と団結」ではなく「多様と連帯」を探るべきではないかと述べました。それに対して共産党の提案に賛成する側から連合政府の意義や必要性が述べられるかと思ったのですが、「そんなの一緒じゃないか」と言う答。ああ、そうなんだ。「統一と団結」「多様と連帯」は一緒なのか。いくつかの市民運動に参加していますが、このことに違和感を述べる仲間に出会わないのは、みんなもそうなんだと納得。

「統一と団結」という呼びかけは、みんな同じ仲間じゃないか、同じ人民、同じプロレタリアート、同じ99%じゃないかという枠内で成立します。子どもの頃から、何か特別な属性ゆえではないけれど、たえず自分がマイノリティーだという意識を持ち続けてきた私には、どうしても馴染めない仲間意識です。その意識に支えられて、プリントされた同じプラカードを一斉に掲げるのでしょう。誰に向って? 同じ仲間にむけて、自分も同じ考えである事を示すため? デモで表現すべきは、外に向って語る言葉ではないのか? 街頭で語るべきは、自分と異なる考えの人達に向って、多様な疑問や批判に応える言葉ではないのか。シングル・イッシューに運動を集約する動きは、安保法制以前から、首相官邸前の首都圏反原連の運動や、その周囲の反放射能運動に強く見られました。異論を許さない圧力は、集会やデモの現場と同時にネットでのバッシングとして表れます。討論会や学習会などの市民運動では、それが異論に対する無視・無関心という反応となります。これまでたびたび同調圧力について書いてきました。しかし、圧力が生じる前に「同調可能」な範囲に問題が設定されている事がありそうです。アベノミクスに対抗する経済政策を積極的に提案すれば、論議が必要となり、賛否が分かれます。仲間内で賛否が分かれるような課題は、最初から取り上げない方が「団結」が保たれるでしょう。「アベの政治をゆるさない」という、反対する事にのみ課題を統一すれば、団結しやすいことになります。この内向きの動機と展開は、対案が欲しい、異なる生き方を見出したいと願う運動外部の人からはすぐに失望されるでしょう。

今後、自衛隊の派遣や憲法改正問題など、一人一人の考えを明確に表さなければならない事が増えるでしょう。9条については、自衛戦争、自衛の軍備を認めるかどうか、きちんと議論する事なく護憲派の間でも70年間、ずるずると「解釈改憲」が行われてきました。歴史的には日本にもあったHoly war (聖戦)を主張する人は現在ほとんどいないでしょうが、Just war (正戦)については護憲派の内部で大きな意見の相違があります。この問題については、西欧社会でも中東でも過去2,000年、議論されてきた歴史があります。国対国の関係にとどまらず、国対個人、個人対個人の関係においても、武力行使、自衛、報復の権利について、深く考えられてきました。

自分がマイナーな人間だと感じるのは、何か一つの属性、一つの領域においてではなく、健康、感性、精神の発達史、社会的位置、職業・・・様々な領域において異なる指向が併存します。一つに統一された自分のアイデンティティーが、周囲に普遍的なアイデンティティーの集合との間で齟齬をきたすというのではなく、自分自身の中に複数のアイデンティティーが存在し、外部の様々な集団に同調しつつ参加する事を妨げているようです。帰属意識が薄弱、あるいはアイデンティティーのない人間という方が正確かもしれません。皆さんはどうでしょうか?統合された一つのアイデンティティーに沿って感じ、表現し、行動しているのでしょうか。己の中で複数のアイデンティティーが「本当にそうなの?」とささやきかけてきませんか。ためらいのない正義、後ろめたさのない良心に従って発言と行動をしているのでしょうか。

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講演会や学習会に参加すると、話している人にむかって多くの聴衆が頷いたり、相づちの声を漏らしたりする光景をよく見ます。そこで語られている内容が本当にそうなのか、パソコンやタブレット、スマホでしらべたり、参考書籍を開いている事はほとんどありません。その証拠に、大きな鞄を持ち歩るく習慣もなくなったようです。話を聞いていると、次々疑問や不整合な事象が浮かんで来て、大急ぎでiPadや持ち込んだ本で調べるのですが、周囲を見回すとそんな人は他にいません。信仰集団の集会に紛れ込んだ気分。独りあくせくしながら、居心地の悪さを噛みしめて帰り、ああまたかと。9.11の後はまだ、異なる視座からの疑問が提出されて議論がありましたが、3.11の後は、決まった反応をそれぞれがなぞっていくような論述の進行と聴衆の反応、レールの上を脇目もふらず、です。その結果、どうもそこは自分の居場所ではない事を確認するために参加して帰ることになります。

なんだか、愚痴ばかり書き連ねたようです。今回は「経済の土俵」にのぼる前に土俵の角で向こうずねをしたたかに打って転けたというところでしょうか。次回はもう少し具体的な考察を心がけます。



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by maystorm-j | 2016-09-16 08:07 | Comments(0)
2016年 09月 12日
ぴんころ地蔵をもらってしまった

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お盆のころですが、会った事のない人から人を介して、ぴんころ地蔵をもらってしまいました。信州、とりわけ佐久地方の人なら当たり前に知っているのですが、たぶん全国版で知られていると言うほどではないでしょう。PPK運動というとますます???でしょうが、ぴんぴんころり、元気に長生きして、寝込んだり認知症にならずに、ころりと大往生を遂げたいものだと言う願望に発するものです。そのために、齢とってからも運動したり、菜園で汗を流したり、知的活動や健康診断。積極的に「老いに向かい合う」姿勢はいいものでしょう。退職金もなく、まともな年金もない私のような職業では、かなう事なら最後まで元気に働いていたいと、切実な思いもあります。

それにしても目の前のぴんころ地蔵を見ていると、見ず知らずの他人から最後まで元気に働けと言われたようで、なんとおせっかいなという気もします。もし現実に働けない状態になったら・・・いかに本人がぴんころ願望を持っていても、先の事は判りません。「酒が飲めなくなったら、生きていてもしかたない」と元気なうちは豪語していた人も、いざ医者に酒を止められたからといって自らあっちへ行ってしまったという話は聞きません。せいぜい人目を盗んでちょっとだけ・・・が関の山。元気な時に尊厳死を望んだ人が、その後もずっと気持ちが変わらないという保証はありません。まして、本人の願望の他に周囲の人達の願いや思惑もあります。しょせん、ままならぬ命と思い定めるのが自然ではないでしょうか。

ぴんころ願望を裏返すとどこか、「生きている価値のない命」が存在するという考えを認めることになるかもしれません。意識もなく、まわりに負担ばかりをかける命なら、早く消えた方が良いということにつながらないでしょうか。死に至る経緯は、突然一気に進む事もあれば、山や谷があったり、少しずつグラデュエーションを描いていくこともあります。もちろんどこから命に価値がなくなるなんて、線引きできるはずはないでしょう。死に近づいていくなかで、少しでもQOLの改善をはかったり、痛みを減らしたりする緩和ケアの充実を否定する事にもなりかねません。一見、人間なら当然の願いと思われることが、ちょっと視座を変えると、命に対する畏敬の念を損なう精神風土を醸成する可能性が見えてきます。現在ぴんぴんな人はそのままころりと逝きたいと考えるかもしれませんが、今ぴんぴんではない人がどう考え、どう生きているか、周りの人がどう思い、かかわっているか。だいじな視点をなくしてしまいそうです。


個人として自分の「生き方」を考えるということと、「死に方」を想定する事の違い。どちらも、周囲の人々と調整しながら実現に努力することでしょうが、後者は努力ではカバーできない不確定要素が前者に較べてはるかに大きくなります。だからこそ、ぴんころ「願望」であって、お地蔵さんに願掛けしたくなります。しかし個人の秘めやかな願いを、他人に大きな声で広言するとなると、個人の願いを集積して社会の精神に築かれてしまいます。その時に起きる共同体が発する精神的圧力、さらにそれが社会のシステムになり、個人を縛り、時には抹殺する力になりかねません。最初に引用した佐久市野沢商店街のサイトを見ていると、街おこし運動、金になる運動という側面にも支えられた、空恐ろしさが伝わってきます。


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by maystorm-j | 2016-09-12 06:09 | 暮らし | Comments(0)
2016年 09月 07日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その10
隣の家の道端に咲くムクゲ。純白の花を選びました。韓国では無窮花(ムグンファ)とよばれ、国の花とされています。日本人にとってのサクラより、この花に対して韓国人はさらに深い陰影をともなう思いを持っているのではないかと想像します。「象徴」から感じる思いや問いかけは、それが無言であることで、より深い思考と感情を促すでしょう。
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先日、地元の護憲団体の学習会に参加しました。めずらしく、自由討論の時間が充分にあって、議論のきっかけとなるよう、いくつかの問題を提起。最初に、「原発、TPP、安保法制などの個々の問題では世論調査は反対が過半数を示すにもかかわらず、なぜ選挙のたびに負けるのか。何が足りないのか反省する必要」を述べました。「これは間違っている」という反対は出来ても、積極的に「こんな社会にしよう」という提案が弱いのではないか。特に経済の問題では、分配の不公平を述べていても、富の生産に対するビジョンがない。左翼リベラル系では、資本主義はすでに限界であり、経済は成長しない事があたりまえのように語られる。しかしこの20年の間、先進諸国の中で経済成長が止まっているのは日本だけで、ほとんどの国はGDPが2倍以上になっている。日本だけが異常な状態と見るべきではないのか。新自由主義経済によって、自然環境、生活環境、労働環境すべてが破壊され尽くす前に、異なる経済を我々は提起しなければならない。

もう一つ、SEALDsや市民連合が野党共闘を促し、一人区では一定の成果をあげたが、全体を見るならとても勝ったと言える結果ではないこと。最初の問題に対する参加者の反応はありませんでしたが、この問題では「若い人達が初めて声を挙げ、野党共闘につながった」とする肯定的な反応が主流でした。私は「声を挙げる」と「語る」事の違いを述べました。上に向って、政治家や政党に向けて共闘と野党統一候補を要求する圧力にはなりましたが、同じ仲間達、横に向って語りかける言葉をもっていなかった。SEALDsの集会で延々と続く「民主主義ってなんだ・・・これだ」というコール。デモや集会がなされる事が民主主義であるという主張、そのデモや集会の目的は「民主主義を取り戻す」である。運動の目的と方法が同じところをぐるぐる回っていたに過ぎず、これでは何も語っていない。星の王子さまに出てくる「酒飲みの悲しみ」を裏返しただけです。

世論調査が安保法制反対過半数、安倍政権支持の低落を示した昨年夏、マスメディアは急にSEALDsを肯定的に取り上げ始めた。国会での論戦や内外での憲法論議から、街頭での若者の活動に注目が移されます。本当に若者が一斉に声を挙げたのでしょうか。マスメディアや政党による意識操作を感じていました。SEALDsの実体はせいぜい1,000人程度。学内の多くの学生の共感を得ていた様子はなく、まして自己を賛美するエリート意識丸出しの彼らに、非正規雇用でワーキングプアにある同世代の人達が賛同していたとも見えませんでした。SEALDsの行動では、先頭の若者と学者集団の後に続くのは、ほとんどが年輩者だったのではないでしょうか。同世代をリードする運動ではなく、年寄りのアイドルにすぎませんでした。

60年安保、68年全共闘運動以来、初めて学生が立ち上がったともてはやされました。60年安保の記録や、その後に経験した学生の運動を振り返ると、大学ではクラスや学科で活発な討論があり、多数のセクト(党派)系学生にまじって、多くの無党派学生も活動し、積極的に学生大会や討論会に参加、学内いたるところでアジ演説が(辻説法)見られました。講義が始まる直前の教室では、学生に向って数分間語りかけながらビラ(チラシ)が配られていました。街頭に出て活動する学生の背後には、それぞれ何人もの学内活動家がいて、その背後にはさらにそれぞれ「シンパ」とよばれる賛同者や議論に参加する活性化した一般学生が多く存在しました。横の語り合いから運動がつくられていたのです。そこでは、上から与えられた言葉に頼る党派系学生より、無党派で個人として運動する学生の方が、自分なりの状況解析と自身の言葉を磨くことの重要性を感じていました。

SEALDsの運動は、同じ若い世代に届ける言葉をもっていなかった。選挙の投票結果がそれを冷徹に示しています。人に未来を示し動くエネルギーを生む言葉のないまま、便宜的に数合わせを目指した野党共闘路線が、選択肢の多い都市部や比例区では支持されず、選挙の終了とともに崩壊するのは当然です。「民主主義は数だ」という考えから、「民主主義は言葉だ」という考えに転換しなければならない事を感じます。


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by maystorm-j | 2016-09-07 06:48 | 社会 | Comments(0)
2016年 09月 06日
産卵場所を探すアカハナカミキリ

迷走していた台風10号は。東北地方に上陸した後は一気に駆け抜けていきました。海上を北上したため、大きさも強さも衰えず、風による収穫期の農業被害が懸念されていたのですが、結果は雨による人的被害を多く出してしまいました。農業被害は予想できても対策が難しいことがありますが、人的被害は常に予想外の経過をたどります。「予想外」だったとはいえ「予測不可能」だったとはいいきれないところが悔しいわけで、日頃、様々なシミュレーションをしていれば、予測の範囲は広がり、あらかじめ対策が可能だったかもしれない。残念ながら事後ではあっても、しっかりした検証が必要でしょう。失敗の検証が不充分なのは、日本の歴史で常に感じる精神風土です。異常な体験と、そこで起きる悲劇や美談が注目されて、起きた事柄の構造的把握や原因追及は忘れられてしまいます。

それにしても、極東地域の気圧配置は変です。見慣れない天気図が続いています。作業場の暑さ寒さは我慢できても、台風の風で屋根が飛んでしまったりすれば、どうにもなりません。簡単なシミュレーションですが、嫌な事は想像したくないのが人情。この秋は仕事場の事を考えなければならないと思っています。d0164519_09543998.jpg


昨日5日、作業場の中に飛び込んできて、あちらこちらの木材にとまっていた虫が、カメラを取りに行っている間に外へ。出入り口付近に放置されているカラマツの丸太、いい具合に腐食がすすんでいます。歩き回って穴にもぐったり、適当な産卵場所を探しているのでしょう。一年間の彼女の生涯にとっては、総仕上げのだいじな作業だと思うと、なんとなく真剣さが伝わってきます。


アカハナカミキリ、どこにでもいる見慣れた虫ですが、キーボードに「あかはなかみきり」と打ち込んで変換すると「赤鼻噛み切り」となりました。まるで違うなんだか妖怪の名前かと、どきっ! 君の知られざる正体は?・・なんて事はありませんね。カンタンの声はあいかわらず聞きませんが、夕方コオロギが一匹、この丸太の近くで元気に鳴いていました。昨日の仕事は、オーダーされた酒器制作の続き。いくつも並べて同じ作業を順番にこなしていても、それぞれどことなく表情が違っています。作業の微妙な加減と、その結果生じる表情の違いを検証し記憶しながら仕事を進めていきますが、最終的な出来映えの評価は仕上がってから。特に、展示してからお客様の評価が重要です。全工程を動画で記録すれば、仕上がりの微妙な違いが工程のどこから生じるのか検証できるかもしれませんが、しっさいには作業場に監視カメラを置くような事にはならないでしょう。

d0164519_09553349.jpg台風10号で多くの被災者を出した岩手県岩泉町の行政に対する批難・バッシングがたくさん寄せられているようです。まだ現地が対策に追われている時点での、感情的評価と批難は、災害の軽減にも再発の予防にもつながらないでしょう。批判者はただ、自分の感情の暴発先を探し、正義感を満足させているだけと思われます。災害発生の当初から時系列的な記録と検証の繰り返しは重要ですが、それは現場から少し離れた位置にいる、様々な専門性を有する人達によってなされることではないでしょうか。現場はそのとき最善と思う作業に全力を注ぐ事しかありません。現場ではしばしば、対策作業者自身も被災者である場合が多いでしょう。価値観をともなう評価や今後の対策のあり方は、災害が終息して、多くの事実が明らかになってから考える事です。「喉元過ぎれば・・・」で、時間が経つと記憶が薄れて反省しない、日本人の精神風土にも問題がありそうです。


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by maystorm-j | 2016-09-06 09:58 | 自然 | Comments(0)
2016年 09月 01日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その9
前の記事で、「消費する」ことを人間の本質とすると、社会はどう見えるだろうかを書きました。華やかな広告宣伝が溢れているため、生産される消費材がいかにも多様で新しい技術・機能を更新しているように見えます。しかしその中で、暮しを画期的に変えた消費材は、洗濯機、冷蔵庫、電気釜、クーラー、車・・・昔は「三種の神器」と呼ばれた、10年に一度ぐらい登場するものだったような気がします。それらは多くの「消費するヒト」が普遍的に欲しがるものです。
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暮しのこまごまとした情景でヒトは、それぞれ個性的で多様な消費を必要とします。年齢によっても、社会内の役割によっても、住んでいる環境によっても消費欲求は異なります。もちろん、病人や障がい者にはそれぞれ必要とするものが異なります。さらにヒトにはそれぞれ好みがあり、それも日々変わるでしょう。消費行動が多様で個性的で、しかも変化する事が生産を変化させているとも言えるでしょう。

そのように考えると、生産の大きな流れは本来、「消費するヒト」のオーダーに沿って方向づけられて来たことになります。新自由主義的生産は、生産者の都合で作られる大量消費の押しつけですので、「消費するヒト」の要求を満たすものとならないのは当然です。生産が「消費するヒト」を支配してしまいます。宣伝によって幻影を見せられ、使用すればじきに幻滅を感じ、その頃には壊れたり古くなったりで廃棄され、次の幻影に向うようにしむけられた消費です。

私は一度も組織に属する事なく、消費者と向かい合いながら一人でもの造りを生業にして来ました。製品価格は量産品の10〜100倍。買って下さる人の期待値に充分応えてきたかどうか、とても気になります。オーダーされる人の希望は、用途・機能、大きさなどの具体性はもちろん、形の印象や好みなど心理的な部分もあります。どっしりと重量感があるものが要求される反面、年齢とともに弱る筋力に合わせて軽く、持ち易くという要求も多く出されます。オーダーメイドなら当然の事です。展示会のために造りためるものも、時間と能力の許す限り多様にと心がけます。世の中には何か勘違いして「俺様の造るものに文句があるならあっち行け」みたいに威張る職人がときどきいます。修理できない「手作り品」も多く見られます。

規格化された大量生産大量消費に対抗する生産として、カスタムメイド、テーラーメイドなどともよばれる消費側が主導する生産が見直されても良いのではないでしょうか。子どもの頃、下駄屋や服屋は消費者に合わせて最後の仕上げを調整したり、修理や仕立て直しをやっていました。魚屋も肉屋も希望に応じてその
場で捌いたり切ったりがあたりまえでした。量産品でも、特にプロむけの道具に今でも多く見られますが、使用者自身あるいは販売者が調整を可能にする造りの製品があります。マイコンが作動を制御する製品は、人による調整が出来ないものが多いようです。

オーダーメイド生産において、すべての人に一定の消費する権利を与えるなら、消費するヒトが多様で個性的である程、生産は多様で個性的になる可能性があります。高齢者、病人や障がい者は新しい製品を産み出す原動力となります。むしろすべての人がマイノリティーであるという前提に立つことで、消費主導の生産へと再転換するのではないでしょうか。
(つづく)

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by maystorm-j | 2016-09-01 09:06 | 社会 | Comments(0)