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2016年 08月 31日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その8
前々回の記事で、働かない働き蟻の話をしました。ナマケモノの存在を認めるという事ですが、社会にはナマケモノではないが働けない人が大勢います。医療の発展と人口構成の高齢化にともなって、ますますそれは増えていくでしょう。ダーウィニズムから派生した優生学が復活する社会的背景は強まっていくことになります。現実の社会で「働かない人」が増えて行くなら、労働と言う物差しで人を分類する事から離れてみたら、世の中はどのように見えるでしょうか。d0164519_08402893.jpg

動物はどうあがいても、植物のように体内で太陽エネルギーを使って無機物を直接栄養に変換することができません。外から取り込んで消費する事で命を維持する生き物です。もちろん人間とて、いや人間こそがその最上段にいる生き物だとしたら、「消費する」事を人間の普遍的な本質に据えて考え直してみたら、いかがでしょうか。消費することで人間の命が維持されて、現在の繁栄を築いたのであるなら、等しく人間に命を維持するための「消費の権利」を与えたらいかがでしょう。農業革命や産業革命という生産の高度化で社会が発展してきたという考え方に疑問符をつけてみたいと思います。

複数の母系で構成され、年老いたメスザルから何代もの母〜娘が共存するニホンザルの社会を見ていると、ボスザル優位社会や父親優位家族とは異なる社会が見えてきます。ニホンザルの群れは100頭前後まで維持が可能で、それ以上になると母系集団単位で分裂するか、少数のメスを核に10頭前後が分離していくようです。サルの仲間では最も高緯度地方に住んで、厳しい自然環境に適応した社会構造を作っているのかなという気がしますが、一つの生物を例として、ご都合主義的に取り上げるのは危険かもしれません。

採集狩猟社会で人々が栄養を獲得するために使う時間は、農業社会に較べると少ないと言われています。農業を導入したことで、人間はよりたくさん働かなければならなくなったということになります。世界各地の文明で農業は5,000年ぐらい前に発達したと言われています。農業、特に穀物生産によって出来た富の蓄積が、貧富の差を生み、権力構造を作り出したと言われています。本当にそうでしょうか。5,000年前といえば日本列島は縄文文化の社会です。4万年前に始まった日本列島の人間社会は、当初から舟を利用し、かなり広域の交易が行われて来ました。けっして小さな地域内での採集狩猟だけで生きてきたのではありません。5,000年前に揚子江周辺で水田稲作が発達すれば、それは日本列島にも伝わったと考えられます。縄文中期にはクリや雑穀栽培が行われ、農業は部分的に取り入れられていました。

では、なぜ生産性の高い水田稲作が、大量の人口と権力社会の流入が見られた弥生時代まで普及しなかったのでしょうか。大量の労働を必要とする農業を縄文人が嫌ったと考えられないでしょうか。社会の中の働かない人にも栄養を分配するには、採集狩猟生産の方が向いていたと考えられませんか。蓄積しにくい採集狩猟生産は、消費が主導するシステムと考えられます。農業が蓄積を産み、蓄積が権力を生み出したと考えるより、社会の拡大と構造の複雑化、権力の発生が農業をなかば強制したのではないでしょうか。権力を維持し、外部の権力と競争するために農業が必要とされた。今も多くの人が縄文文化に憧れたり郷愁を感じたりするのは、縄文社会が持っていた豊かな精神性、その底流に命の維持をめざした消費に導かれた労働が持つ余裕を感じているように思います。   (つづく)


by maystorm-j | 2016-08-31 08:49 | 社会
2016年 08月 25日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その7
先日学習会の折り、「明治以降の近代化の中で自我が芽生え・・・」「それ以前の日本文学には小説がなく、源氏も小説ではなく物語り・・・」という趣旨の発言がありました。森鴎外や夏目漱石にいたって、初めて近代的自我を描くようになったというお話をd0164519_05362161.jpgよく聞きます。さて、自我のない人間ているのでしょうか。それ以前は、中世封建社会的身分にとらわれていて、「個人」という意識がなかったと言うのでしょうか。昔は「自我のない人間」ばかりだった? 女性はみんな、親の定めた見ず知らずの武将と政略結婚させられた? 与謝野晶子が初めて異議を唱え、漱石や鴎外が初めて「悩んだ」??よく言われる話ですが、ちょっと立ち止まって考えれば、そんなはずはないと気づくでしょう。

漱石は確かにおもしろかったが、一緒に悩んで血を吐くなんてあり得ない。高校生時代、当時は亀井勝一郎だの芹沢光治良だのが「良書」として勧められていたが、バカバカしくてやってられないという感じ。「自分とは? 他者とは?」と観察し考えるのはいいが、他人に成り代われないのだから悩む事ではないだろう。むしろ、宇治拾遺物語のように、人間一人一人を意地悪く観察し、笑いのめして明日から少し違う生き方した方がいい。

よく「自分にそっくりな人間が世界には3人いる」と言われたが、逆に言えば、3人以外は何十億人みんな違うということだ。毎日鏡を見ながら、自分の容姿を悩んでいる若者もいれば、ニキビをつぶしている若者もいるだろう。人間の精神というものにはどこか、「普遍的な同調面があるはずだ」とか「社会の進化にともなって精神も進化する」という信念があるらしい。社会は確かにこの2000年、大きくなり、複雑になり、高速化してきたが、進化したかどうかは怪しい。人間の能力のうち、かなりの部分はむしろ退化しているように感じます。一人で、あるいは家族や少数の集団内で問題を解決してきた古代人より、複雑で細分化された社会に問題解決を委ねている現代人の方が、はたして個人の能力が進化しているのでしょうか?

生物学の周辺をうろつきながらも、若い頃からダーウィンの進化論,特に「最適者生存」絶対信仰に疑問を感じていました。簡単に形態を変化させにくい動物と違って、植物は、その環境における「最適者」以外にも、他の環境で繁栄している植物がかなり形態を変化させて侵入しています。生き残れるかどうかは、最適な変異を持っているかより、偶然に支配されているか、化ける(遺伝子的にではなく形態の変化を我慢できる)能力の高さではないかと感じている。自然が最適者ばかりで構成されているなら、強力な外来種に占有された生態系のようなのっぺりした景観ばかりになりそうです。そんな事をある現役の研究者にちょっと話したところ、「中立進化論ですね」とあっさり言われました

ダーウィン進化論の訂正ないし修正として1960年代後半に登場し、70年代にはほぼ確立、その後も遺伝子レベルでの検証が進んでいる新しい進化論。うかつにも、私はそれを知りませんでした。受験生物学・大学一般教養の生物学を終えた直後に登場したもので、進化に関係する分野を選んでいれば当然知っていたでしょう。あわてて、関係する本を何冊か購入し、ネット動画で最近の受験生向け生物学講義を聞きました。私が昼寝を貪っている間に、進化論は自身の一部を自己否定する形で進化していた。ヒットラーの時代、ダーウィニズムを否定するのは反動側の人達で、最先端の科学者・医者達は喜び勇んで優生学の実践にかかわっていた。現在も、倫理的側面から優生学を否定する事はあっても、生物学の側から明確な乗り越えがなされていない。今や科学はダーウィニズムの検証、修正、新しい進化論の時代になっていると言うのに、ダーウィニズムに依拠したままでその応用実践を批判しなければならないという無理です。とりあえずダーウィニズムも不動の真理ではなくて、「ああ良かった!」

いろんな専門の研究者の話を聞いたり議論する機会があります。最近は、専門外の話をする引退した専門家も増えている。学際をこえた総合的な話はおもしろいのだが、専門領域では引退後も最新の研究に注目していたとしても、まったく別の領域になると、その知識は本人が大学受験した半世紀も前に仕込んだままかもしれません。自分自身が学び直すという気でいないと、カビが生えたものをさも美味しいだろうと配っているようで怖いですね。今日は本題から脱線したままですが、アベノミクスもずいぶんと賞味期限切れの論理を振り回して、余計なおせっかいを焼いているようです




by maystorm-j | 2016-08-25 08:06 | 社会
2016年 08月 23日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その6
一昨日、追分で知り合いが主催した学習会の参加しました。喉の痛みと咳き込みでぼっとした頭だったため、一日間違えて予定の演題は既に前日終了していて、その日は「量子力学の世界観」。体調不良の身には重たい内容です。良くある括りですが、西洋は一神教、東洋は多神教、日本の仏教も多神教、神道も万物が神であるとされていると、語られます。神道についてみると、縄文から続くアニミズムと卑弥呼以降古墳時代から律令国家成立にかけて組み立てられた天皇中心の祖先崇拝はまったく異なるものではないかと思っています。天照大神が西洋の神と同じ位置づけと言うのではなく、「万世一系」神話に補強された天皇の系譜が一神教的存在なのではないでしょうか。自然神とはまったく異なる神の存在です。唯一神としての「天皇」に従って営まれるマツリゴトと、マツロワヌ人々の征服が繰りかえされます。本地垂迹説による仏教からの補強もあって、その後の日本は中央集権官僚制でも地方分権武士制でも、決定的な世界観の分裂が防がれたのではないでしょうか。
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話がそれましたが、その後の歓談の場でベージック・インカムについて提起してみました。B.I.の話をすると必ず起きる反応が「ナマケモノが増える」という懸念。実際はやってみなければ判らないのですが、生活保護受給者に対する「ナマケモノ・バッシング」に憤る良心派の人々も、全員に一定額の支給をと言うB.I.に対しては「ナマケモノ」問題を持ち出します。困窮者や障害者に対する給付は、結局特別に気の毒な人への救済策と考えていることになるでしょう。これでは、もらう側は肩身の狭い思いから抜けられません。話は簡単で、全員がもらえば解決します。保護費の捕捉率の低さを気にする事もなくなりますし、窓口で嫌な思いをする「水際作戦」もなくなります。生活基礎資金ですから、介護費用や医療費、特別な生活用具などは別に支給すれば、その金でパチンコしているのではないかと下司の勘ぐりもなくなります。

さて、ナマケモノをどうするか。何時の世もどんな社会にもナマケモノは存在すると割り切る事です。私の周囲のもいろいろいます。おだてたり、なだめすかして働かせてみても続きません。その面倒を見ていると、こちらが足を引っ張られますので、ほっておくのがいいでしょう。せっせと働いているように見える働き蟻の中にも、一定の割合でナマケモノが存在すると言う研究が話題になりました。
ナマケモノはスペアとして必要だという主張です。しかも、個性ではなく、集団の一定の割合が自動的に怠けるらしい。働き者ばかり、あるいはナマケモノばかりの集団に再構成しても、一定の割合が怠ける。もちろん、複雑な社会構造と多層的な他人の眼にさらされる人間社会にそのまま当てはめられものではありませんが、試してみる価値はありそうです。役場に行くと2〜3割の良く働く人と、まあまあ給料分は働いていそうな人、そして一定の割合のナマケモノ。ナマケモノばかりの部署を作ったらどうなるでしょうか。住民の命にかかわらない行政の分野で試してみたい気がします。

もう一つ、B.I.の話をすると必ず出る反論が財源問題です。たとえば月5万円を1億3,000万人に配ると年間 ¥50,000x130,000,000x12=¥78,000,000,000,000
78兆円ですね。これについては、また別の稿で書いてみたいと思います。




by maystorm-j | 2016-08-23 08:47 | 社会
2016年 08月 21日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その5
お盆の15、16日、仕事場の隣、公民館の駐車場で盆踊り大会がありました。隣組の役員ということで、焼き鳥の係に。前日から解凍した焼き鳥が、大型の食卓上に30cmの高d0164519_04070265.jpgさで積まれ、盆踊り開始の3時間前から焼き始めます。中国製。焼きぐしに刺した状態で一度茹でるか蒸すか、火を通して冷凍輸入。盆踊りの混雑を予想してあらかじめ一度焼いておきます。大会が始まる7時から終る9時まで、もう一度味をつけて焼き直し。いくら熱々でも、3回も焼けば美味しいわけはありません。それを2本100円で売るのですから、もとの価格はいくらなんでしょうか。炭で焼けば美味しくなるというものではありません。ブロイラーの胸肉はしょせんバサバサしています。1500本だか3000本だか焼き続けて、煙で喉はガラガラ。2日後に会った人達からは、隣でドナルドダックがしゃべっていると言われる始末で、4日経っても回復しません。

しばらく戯れていたモンシロチョウとスジグロシロチョウは、勘違いに気づいて分かれて行きました。この集落は、戦後満州から引き上げて開拓に入った人達によって作られました。当初は極貧の厳しい暮しで、盆暮れ正月、支援する教会のクリスマスは、子どもに限らず大人にとっても指折り数える楽しみだったに違いありません。軽井沢の歓楽街のような華やかさはありませんが、いまは落ち着いた山里のたたずまいとなっています。生前はさぞご苦労したであろうご先祖様を迎える年に一度の時に、きっと薬づけの美味しくない焼き鳥をその子孫の子供達に食べさせるのか、まったく理解できません。集落の外れにある国際高校から100人ほど、外国の少年少女も「ボン・ダンス・パーティー」に参加しています。日本人は、「ハレの日」にこんなものを食べているのかと、恥ずかしいばかり。

軽井沢の夏、多くのリタイア組はグルメ気取りで飲食店を徘徊しています。金と暇のある人相手の商売ですから、美味しさ以上に価格は上がる。彼らには江戸時代のご隠居の節度はない。それでも何軒かの蕎麦屋は、まあ価格以上の味と雰囲気を提供していますが、ヨーロッパ風の店には近づかない事にしています。美味しいものは、これから文化を創る若い世代に回した方が良い。社会全体を豊かにするために、彼らの感覚を洗練させ、その再生産力に期待しよう。後期現役世代はバーベキューが好きです。ガツガツ喰らいガブガブ飲む雰囲気に馴染めず、私は出来るだけ逃げ回ってきました。ビールは一缶飲めば充分、後はただの発泡液体。齢とったら、たまのハレの日に「一点豪華」がいい。

生産モデルを変更しないまま、お金をジャブジャブ刷って価格を上げようとしても、結局は低コスト・低品質・低価格・低満足の「負のスパイラル」から抜け出られず、安物を求めてアジア・アフリカから輸入し、国内生産は落ち込むでしょう。アベノミクスや新自由主義を批判する側が、分配の不平等ばかりを述べて、新しい生産モデルを提示しないのは、明らかに怠慢です。反対できればいいと思っているようです。人民=プロレタリアートが安く買えればいいとする発想を捨てて、高品質・高価格・高耐久性・高満足の生産と消費に移行し、蓄積を増やすモデルが必要です。たぶん、それを裏から支えるのがベーシック・インカムではないかと思います。 (続く)




by maystorm-j | 2016-08-21 05:12 | 社会
2016年 08月 16日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その4
数年前から昆虫が少ないと書いてきましたが、今年はセミの声もほとんど聞きません。
d0164519_06542359.jpgセミは土の中で何年も過ごすので、少ない原因が何年も前の卵産みつけられた年にあるのか、今年羽化する時にあるのかが判りません。毎年成虫が卵を産んで翌年成虫になる昆虫や、蝶のように年何回かそのサイクルを繰り返す昆虫の場合は、減少した原因は去年か今年にあると言えるでしょう。

梅雨が長引いた分、8月初旬は暑くなりました。しかし、気圧配置は夏型にならず、太平洋高気圧が発達しないまま、日本海側や黄海に高気圧があります。中旬に入って、特に朝晩は冷え込んで、一昨日は15度。寒暖差が大きいと、果物や野菜はおいしくなるかもしれません。

前の記事に書いた岩手の友人は、軽井沢に海がないのでと、魚を運んできました。去年は食べ切るのに1週間(半分は干物にして)かかったので、今年は一日で食べきれる量にと前もって伝えておきました。それでも刺身用にヒラメとアジとイカ。初日は確かに新鮮ですが、翌日に残るとこちらのスーパーの方が・・・。その他にアンコウが丸ごとあって、一部は唐揚げで食べましたが、残りは鍋に放り込んでとりあえず加熱。その後2日がかりで片付けました。気になったのは、そのアンコウの値段。こちらでたまに売っているものに匹敵する大きさですが、季節はずれのせいかそれが300円。冬場なら2〜3000円の価値があるはずです。

以前、日本とノルウェーの漁業について書かれた勝川俊雄さんの本を読んだ事があります。乱獲による資源の枯渇が懸念されている日本の漁業に対して、漁獲量と捕獲サイズ、販売地を合理的にコントロールするノルウェーを比較して、警告を発するものです。高い価格で売れるものを獲り、最も高く売れる場所で売る事を、各個人の漁業者がインターネットを漁船上で駆使しているのがノルウェーの漁業だというのです。高く売れるものというのは品質が良く、高く売れる場所というのは需要があると言う事でしょう。成長し切っていない小さな魚は価格が低いので、売り上げを維持するためには大量に獲らなければなりません。乱獲が起きて資源は減り、魚体はさらに小さくなり、低品質低価格大量生産の悪循環に陥ります。自然生態系からの略奪生産では特に、この負のスパイラルを避けるシステムが必要です。ペットフードにしかならないものを獲っているのか、あるいは人間がペットフード並みのものを食べているのかもしれません。

1億3000万人の人が食べていくためには、大量の生産が必要ではあります。人口が20分の1以下のノルウェーとは比較できないと言われるかもしれません。しかし、統計の取り方によって違いがあるかもしれませんが、日本の食料廃棄率はアメリカより高く世界一ではないかと言われています。野菜など流通する以前の生産現場における廃棄を考えると、さらに多くなるのではないでしょうか。売れないものを作っては捨て、獲っては捨てていたのでは、いくら生産量が上がっても社会は豊かにならないでしょう。暮しの豊かさにつながらないものを消費していると、常に満足感のない精神的な飢餓状態に陥りそうです。多様で生産力の高い海も畑も森もあるのに、その機能を充分に活かせていません。グローバルな資源と労働の略奪による大量生産大量販売ではない、身近な環境と資源、質の高い労働力によって高い満足を持続できる生産と消費・蓄積に切り替える事が必要でしょう。
(続く)




by maystorm-j | 2016-08-16 07:23 | 社会
2016年 08月 08日
夏山を歩く・・・高峰高原車坂峠から浅間山湯の平と外輪山周回
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岩手から友人がやってきて、翌日は山歩きすることに。ついた日の午後、軽井沢案内、産直見学、そしてアウトレットで山靴とヤッケを購入。高齢初心者で、足許と防寒雨対策だけは命にかかわるので、少し奮発してもらう。靴は革でゴアテックス、ビブラム底。あきらかに実力以上の道具だが、道具の性能が力量を高めてくれることもある。ヤッケもゴアの赤。目立った方が良い。まとめて買ったので、たぶん正価の4割引以下だろう。これからの一生使える事を考えると、いい買いものだと思う。アウトレット街の良さは、4〜5軒の店を一度に見比べることが出来て、妥協しないですむ事だ。底の柔らかいトレッキング用はいくつかあったが、明日は岩場が多いので、一点で支えられる硬めのものにする。

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標高2000mの車坂峠を7時出発。靴がいいので、勝手に足が前に出ると言う。順調に黒斑山トーミの頭まで登る。さて、そこでコース選択に迷う。そのまま外輪山を行けるところまで行って戻るのが初心者向けだが、天気は最高で、夕立と雷はなさそう。靴の良さ、天気の良さ、何よりも腹回りに蓄積されたエネルギーを信頼して、長距離周回コースに挑む事にする。という決断で、いきなり草すべりを急下降。登りよりペースが落ちたので、ちょっと気がかりだったが、後で「高所恐怖症」と判明。縦走の前半は岩場と崖が多く、それは大きな誤算でした。

なんとなくへっぴり腰で下り切って、湯の平はずれの山小屋でおにぎり。だらだら登りで湯の平を突っ切る間は、快調な歩き。登りの方が調子いいのも、いい具合に進んでいる時には不思議に感じないものだ。手も使わないと体が確保できない岩場の登りになると、がくっとペースが落ちる。ジャングルジムで遊んだ事がないのかもしれない。ゆっくりだが何とか尾根に上がって、縦走開始。ゆるい上り下りでもペースが復活しないのは、どうやら左側につづく崖が怖いからのようだ。現在の浅間山より高かった黒斑山が、23,000年前に崩壊して、麓を25km先まで埋め尽くした時の、残った部分が外輪山の崖。確かに落ちれば命はないが、びくびくしていると却って危ない。

岩場が終ってもそろりそろりと歩いているのは、今度は脚の筋肉疲労のようだ。飴とチョコレートでごまかして、何とか下り切る。全行程8時間、まずます、初心者としては上出来だ。夏の週末で登山客が多く、へばってぶっ倒れていると格好がつかない状況だったのも幸い。靴選びが良く、靴擦れやマメが出来なかったのも、体力の限界まで歩けた一因だろう。初心者を連れて行く場合は、3人以上のグループが良さそうです。


by maystorm-j | 2016-08-08 21:38 | 遊び
2016年 08月 03日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その3
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都知事選挙の結果は、予想されていた事ですが、野党統一候補惨敗に終りました。有力3候補にしっかりした政策の違いや、他を圧倒する人格的な良さがあったとは思えず、都民の「意識」と言うより感覚的な流れの表れという気がします。野党側に、統一候補を立てればなんとかなると言う甘い誤算があった事は言えるでしょう。参院選一人区で善戦したという判断が背景にあります。

参院選での野党共闘は、県ごとに内容も候補者も違いますが、私のところでは共闘がすんなりと進みました。しかし、候補者の人格にも政策も精査されることはなく、手ごろな人という印象が強かったのではないでしょうか。私はむしろ「僕ってぴったりでしょう」とにやけ顔で登場した統一候補に卑しささえ感じられて、しぶしぶ投票しました。お手頃感のある候補者探しではなく、政策をしっかり持ち政策実現の道筋を提示できるプロの政治家が必要なのではないでしょうか。野党政党にその役割を期待できなくなって、既にかなりの年月が経ちます。特に「経済の土俵」では、富の分配に対する不平不満を述べても、富の生産に対する対抗政策はまったく提示されていません。富の生産を考えるという意識すらなさそうです。

ソビエトが崩壊してから四半世紀が経ち、壮大な生産と分配の実験が失敗に終ったにもかかわらず、それに替わる経済のシステムが提案されていません。グローバル資本による低コスト低価格大量生産販売と金融資本を中心とする分配の自己責任論を軸に新自由主義経済が席巻してきました。左翼リベラル側はその分配の不公平に対する不平不満を述べてきました。しかし、賃金による分配要求は正規労働者の体制化と非正規労働拡大で、分配の公平を得られていません。福祉による補整も、生産が伸びす、賃金も増えない中で、財源がありません。軍事費を福祉にまわせという主張もありますが、その場合は国の安全保障を根底から議論して、国民のコンセンサスを形成する必要があります。昨年の安保論議では、法制の手続き論に終始して、安全保障の理念的議論はなされませんでした。

町の保養施設でサウナに入りながら、何人かの年輩者と都知事選について話しました。その中で、これまで一番安保法制やTPPの批判をしてきた一人が「小池さん頑張っているね」と言い出してびっくり。私以外の3人はインターネットを見ないのですが、その人は長年教育関係の仕事をしてきました。1970年代の東京、横浜、京都、大阪などの革新自治体世代です。小池氏が、ボスと利権の自民党に対抗する「革新」候補に見えたのでしょう。東京都民の若い世代、無党派層、民進党や共産党支持層の一部など、小池氏の得票を押し上げたのは、意外な事に「革新」を望む意識だったのではないでしょうか。
(続く)


by maystorm-j | 2016-08-03 21:11 | 社会