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2014年 06月 29日
蝶の裏と表/ホンミスジとヒオドシチョウ・・・異常発生は地球温暖化?
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先週は土日をまたいで1週間、仕事の展示で佐久市望月の御牧原台地にある多津衛民芸館に通いました。毎日のように晴れ間と雷が交互にあって、今年の梅雨は派手だなあという印象です。展示の始まった頃、民芸館の周辺はすこし蝶が多く、いい写真が撮れるかなと思ってカメラを持ち出しましたが、そのうちに蝶の乱舞という状態になり、ほとんど昆虫写真の経験がない私にも、中玉の望遠レンズどころか、普段つけっぱなしの18-105ズームレンズで撮れるほどになりました。

写真左はホンミスジ。どちらが雄か雌かはわかりませんが、種類の多いミスジチョウの仲間では、下翅裏の付け根に黒い点が数個見えるのがホンミスジの特徴と図鑑にありました。翅の裏は表に較べると全体に赤茶色を帯びていますが、模様の印象は表と裏に大きな違いがありません。右側はヒオドシチョウ。表と裏が極端に違います。同じ時期に同じ場所で飛び回るのに、どんなわけがあって一方は裏表が極端に異なる進化をしたのでしょうか。

これも図鑑による知識ですが、ホンミスジは幼虫の状態で越冬するようです。それまで食べていた植物の葉をくるっと巻いて巣を作り、その中で寒い冬を越します。一方のヒオドシチョウは成虫で越冬するようです。休眠中の身の安全のために、翅を閉じると樹皮や落葉と見分けがつかない地味な柄が都合良いのかもしれません。見かけた時期だけの物差しで考えるとわからないことがあります。歴史を学ぶことが、社会や人間の在りようを知る上でも必要なのでしょう。

それにしても、どうして蝶が異常なほどふえているのでしょうか。今年の梅雨が「陽性」なのも、東京に雹(ヒョウ)が大量に降ったのも、何かあるとすぐに異常気象だ地球温暖化だと言う人がたくさんいます。異常と見えるその現象がどの程度の広がりをもっているのか、全県規模なのか、全国規模なのか、地球規模なのか。佐久地方ででもヒョウは毎年のようにあります。かなり局地的な事が多く、場所の予想は不可能です。いつも同じ場所がヒョウ害に遭うとなれば、そこにリンゴの木を植える農家はいないでしょう。レタス畑が広がる事もないはずです。

東京の一部にヒョウが積もるほど降ったのは、上空に冷気があったのでしょう。その場所がヒートアイランド現象で急激な上昇気流が起きたのかもしれません。望月町の会場から見ていると、蓼科山の方向に雷雲が湧いて、東へ移動してきます。西の方で落雷が見え、しばらくするとこちらにやってきます。地元の人の話では、蓼科山側の雷は北を東西に流れる千曲川を渡って浅間山側に北上することはなく、浅間山側の雷も千曲川を渡って南下することはないと言っていました。対岸の雷は恐くないそうです。虫の異常発生も、小諸や軽井沢では今のところ誰からも聞かれません。やはり地域限定の現象と、今のところは見るべきです。

もちろん、大きな地球規模の現象との関連を否定する材料もありませんが、とりあえず限定された範囲で起きている事を何でも地球温暖化のせいにするのは無茶ですね。地球の噂ばかりしていると、どのうちに大きなクシャミでもされたら、人間ひとたまりもありません。

人間の習性なのでしょうか、自分たちが能動的に始める変異の結果については、メリットばかりを予測しますが、環境から受動的に受ける変異についてはデメリットばかりを勘定するようです。昔々、縄文時代は環境が温暖で、人々は争う事もなく自然と共生していました、なんて言うエコロジー好きの人が、一方では地球温暖化は悪い事で、その結果、自然も人間の暮しも破壊されると予想しています。ホンキカシラ??? 温暖な気候の中で繁茂した植物に支えられて繁栄した恐竜のみなさんに笑われそうな気がします。
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by maystorm-j | 2014-06-29 05:58 | 自然 | Comments(0)
2014年 06月 22日
(続)多津衛民芸館二人展とトークセッション
d0164519_2054981.jpg昨日の記事の続きです。

ぎりぎり暮らせる限界の価格をつけたところが、その値段がホームセンターの鍋の100倍になるとしたら、お客様にどう「申し開き」すればいいのでしょうか。機能性の高さ、修理可能で長く使える、台所だけではなく食卓にも出せる・・・いくつかの優れた点を語ってもなかなか100倍の価格差を埋められるとも思えません。

展示会場では、私はけっして語りが上手なわけではありませんし、もともと営業などの人付き合いが下手なので、引き蘢ってもの作りをしているようなところがあります。口先三寸で売りつける才覚などありません。しかし、買って行かれるお客様を見ていると、どこか騙されているんじゃないかと、自分と相手の関係を越えて感じることがあります。どうか、後で後悔しないでほしい、後でしまったと思うぐらいなら今のうちにやめて・・・なんて口に出したら商売になりませんが、それでもどこか心の片隅では、自分を向こう側に置いてみて考えることがあります。

何度か絵を買うことがありました。と言っても、無名の人の安い絵です。安いというその値段が、実は自分が作る鍋とほぼ同じ価格帯です。5万円が絵では安く、鍋ではべらぼう高いと感じるのはなぜでしょう。この絵を買うと、2〜3日分働いた収入が飛んでしまうと思いながら、それでも安いと言うのはなぜか。働かないで儲ける事を自分に禁じているので、株や投機に手を出した事はありません。今その絵が安くても10年後には高くなっているかもしれない、なんて気持ちで買うわけではけっしてけっしてありません。借家で仕事をしているので、自分の豪邸の壁を飾って来客に見せつけようなんて事もありません。なんとなくその絵に幻惑されて、持ちたいというおかしな気分ですね。時々眺めてはニタニタするかもしれません。幻の世界で遊ぶといったところです。

そう考えると、私はその絵に騙される事を良しとしていると言えます。騙されていっとき気分よく過ごす、あるいは鋭く切り込んでくる問題提起にエキサイトする。絵を見たからと言って周囲の状況が具体的に変わるわけではなく、自分が幻の世界で遊ぼうとしているのではないか。映像でも写真でも役者や芸人の演技でも、それを受け取る自分は、騙される事を望んでいるのではないでしょうか。絵空事という言い方がありますが、その幻影に触発されて、現実の世界では騙されないように、鋭く本質を見抜く力を持ちたいと、秘かに願っているのかもしれません。

幻を作り出す力が「芸」だと考えれば、大雑把に言ってホームセンターで売っている鍋の10倍の価格は技術の力が生む機能性によるもので、さらにその10倍の価格は芸の力が生む幻への期待なのではないでしょうか。その根底には、栄養補給という事以上のものを食と食事に期待する気持ちがあると思います。

会場で買っていかれるお客様には二つのタイプがあり、瞬間的に見抜いてきめる方と、全てを見比べて説明を聞いて熟慮する方とがいます。どちらの心の内もわかりません。自分はどちらかと考えると、仕事の電動工具やカメラやパソコン関係・電気器具を選ぶときはかなりぐずぐず考えます。カタログを隅々まで読んで、ああでもないこうでもないと考えている時間に、小さな鍋の一つでも作って売れば、もう少し気楽に買えるだろうにと、後から馬鹿だなあと反省します。仕事の道具でもハンマーやヤスリや、ヤットコなど手動のものは、その形を見ただけで瞬時に決めます。本やそうですが、たんに安いから簡単に決められるという事ばかりではなさそうです。

鍋は道具です。買われた方は台所に立つと、鍋を買った消費者から料理を作る生産者に変身します。食事作りという仕事は、食材を美味しくするだけではなく、食べる人とのマッチング、タイミングや雰囲気などかなり総合的な作業です。自分一人の食事であれ、家族や友人達とであれ、レストランで100人のお客様相手であれ、料理を産み出す向こう側には消費者がいます。その消費者は、単に効率よく栄養が補給できれば良いという以上の、「食事」に対する期待があり、それは幻を求めていると言えます。

100倍の価格の鍋が、食事という幻を産み出す人の道具として、その人の芸の力に寄与できるかが問われるのだと、想像します。
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by maystorm-j | 2014-06-22 21:31 | 社会 | Comments(0)
2014年 06月 22日
多津衛民芸館二人展とトークセッション
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一昨日以来、長野県佐久市望月の多津衛民芸館で、木彫の武井順一さんと二人展を開催しています。会場は、地元の教育者小林多津衛さんの100年余りの生涯を通じて取り組んだ平和運動と民芸運動の足跡やコレクションを展示する建物で、古民家の骨組みを再生した堂々たる建築が広々とした丘の上に建っています。コレクションは江戸時代に一般庶民が使用したと思われる染め付けの焼き物が中心です。

昨夜は10人ほどの人とともに、武井さん、民芸館館長の吉川さんと3人のトークセッションを2時間。工芸を地域社会の中で生業として続けることのいろいろな問題を語り合う予定でしたが、そこは少人数の近距離で話す空気の中で、話は縦横無尽に飛び交いました。工芸でも特に生活工芸の世界では、話がついつい進む方向性が決まっていて、「誠実に生きる作り手」が「使いやすい良いものをつくり」「心優しく暮らす使い手」がそれを求めて行く。というパターンがあります。民芸運動の時代から今日まで、綿々と続いてきた工芸の王道です。

しかし、そのように続いて来た暮しの工芸はいまや息も絶え絶えです。100円ショップや量販店に押され、デパートの工芸品売り場は硬直化し、お客様は高齢化しています。アベノミクスやTPPがこれから絶え絶えの命にとどめを刺してくれるでしょう。滅び行く景色のなかで、それでも自分は「清く正しく美しく」生きたと自画自賛しても仕方ありません。むしろ、それは次の世代に対して、良しと信じた景色が崩壊するに任せる無責任さかもしれません。

5万円、10万円の銅鍋を作っていて感じますが、ホームセンターで売っている5百円千円の鍋と較べて、100倍の価値があるでしょうか。デパートで売っている5千円1万円や、3万円の輸入鍋に機能的には負けない自信はあります。でもそれらの10倍の価格をつけています。それでも計算してみると時給千円の労働で、それ以下の価格では生業として成り立ちません。ぎりぎりの値段ですが、それは作る側の都合です。買って使う側がその価格差に納得していただけるか。そこにどんな価値があるのか。

ホームセンターの価格の10倍までは、技術と機能性で勝負する領域だと思います。そこから上は、デザインと幻想で勝負する芸の領域ではないでしょうか。使う人がワクワクするような夢を見ていただく世界。あるいは逆に矛盾を鋭く想像させる。それが芸の目指すところではないかと思っています。

会場へ出かける時間になりましたので、この続きは後ほど・・・
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by maystorm-j | 2014-06-22 08:33 | 社会 | Comments(0)
2014年 06月 15日
世界標準が嫌われる?日本文化
d0164519_6422959.jpgどこにでもある草。きっと咲くのが一ヶ月早く、道ばたがセイヨウタンポポの黄色で埋まっていたら、この花は目の隅にも届かなかったかもしれません。陽があたると小さいながらも、くっきりと鮮やかな黄色と緑が目立ちます。前の記事に書いたサラサドウダンの微妙な色合いに比べると、花はどこまでも黄色く、葉は黄緑一色です。花の色の移ろいが好きな日本人の好みには合わないかもしれません。分布は世界的で、南極以外の五大陸に広がっています。風に乗せて種を飛ばすタンポポほどには侵略的ではありませんが、小さなオクラのような実は触れるとはじけて、周りに種を飛ばします。

今朝は明け方に6度まで下がり、梅雨の中休みというよりは、一ヶ月前に逆戻りの天候です。雷が一日に何度もやってくることがあり、その度にパソコンのコードを抜いています。この数年急速に普及しているスマートフォンに押されてか、パソコンの普及率は21年をピークに減少しています。私はタブレット端末も使っていますが、情報受信には充分使えても、仕事の事務経理などの作業では、とてもPCの代用にはなりません。長い文章を書いたり、発信するにも向いていません。まして、スマホの小さい画面はPCと較べるべくもありません。齢とともに、ノートパソコンの画面ではきつくなって、大きなディスプレーを接続しようかと考えているほどです。

道具の属性は単に便利不便というだけの問題ではありません。重要な情報が長い文章だったり、図表がふんだんに使われていた場合、スマホの小さな画面では、つねに小さく切り取られた部分の連続で順番に見て行くことになります。ちょっと前に出た記述や図表に戻って筋道を捉えて理解するのが面倒になるでしょう。論理的に理解すると言うより、目の前の部分を鵜呑みする(あるいは拒絶する)ことになります。情報を精査し、そこから考えて考えて考え抜くというのには小さな画面は向いていません。

お隣の韓国では、大手のマスメディアが政府寄りという点は日本と大差がなさそうですが、対抗するオルタナティブ・メディアが頑張っています。紙媒体の新聞もありますが、インターネットで流れるラジオや動画も増えています。日本にもありますが、人口比を考えると韓国の5分の1程度の普及です。動画サイトをタブレットで見ることが多いのですが、画面をフルサイズにしないと地図や図表、発言者の表情など見分けることができません。せっかく受信していながら、スマホでは見落とす情報が多いと思われます。

市民運動とは無縁な「一般市民」と話すと、数字で見るPCの普及率より実際の利用状況はかなり低いことに気づきます。つまり、家庭に1台、誰かが以前に買って今も置いてあると言うだけの人が多いということでしょう。子どもが使っているけれど、自分は触ったこともないという人もいます。権力者、その宣伝を請け負う広告会社にとって、国民を騙すことは赤子の手をひねるほどに容易いと思われます。しかも、その状況が「一般市民」だけではなく「市民運動参加者」でもあまり変わらないところに問題があります。運動の一般参加者だけではなく、運動を主催するメンバー間でも、メーリングリストで連絡や意見交換をしようとすると、必ず参加してこないメンバーが多数出てきます。ほとんど更新されないその運動の公式サイトがあればそれで安心して、自分から自分の言葉で発信することをしません。個人のレベルでも、運動の参加者の間でも、情報を精査検証し、議論を展開し、考え抜くという回路がないのです。PCは道具にすぎませんが、その道具の使い方を見ればその人がどう行動しようとしているのかが見えてきます。

ちょっと愚痴っぽくなりました。参加しているある運動では、情報を精査し、それに基づいて議論をと求めたところ、堅苦しい議論はやめて指導者に任せようと、ほとんどの参加者に議論を拒否されました。別の運動では、メールでいろいろ呼びかけても反応がなく、だれも自分のサイトで発言することもないので、誰がどんな考えなのかさっぱり解らない状態です。戦争に向って激動する社会に対して、いつまで「もの言わぬ民」でいるんでしょうか。時には「日本的美徳」をぶち破りたくなります。市民運動では、グローバリズムなんて口にした途端に拒否されますが、やはりもうちょっと広く世界を見ませんか。敵も味方も日々刻々変わっています。
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by maystorm-j | 2014-06-15 06:32 | 社会 | Comments(0)
2014年 06月 12日
ホントカシラ? ホンキカシラ?
d0164519_21351415.jpg山に生える野生の植物なのですが、庭に植えられたり、生け垣代わりに仕立てられています。むしろ山で出会うと、ああこれが本来の在りようなんだと気づかされるほどです。名前はサラサドウダン。サラサは更紗で、花の色合いから名付けられたようですが、難問はドウダン。ドウダンツツジの仲間ということですが、今回あらためて調べて、そのドウダンとは灯台から来ていると知りました。「灯台下暗し」の灯台なのですが、これもお恥ずかしいことに海辺に立っている背の高い「灯台」だと思っていました。あの灯台の強い光も直下には届かないからと・・・そう思っている人も多いのではないでしょうか? 正解は、昔の室内灯。時代劇で見かける、座敷に置かれた背の高い木の台の上に油を入れた火皿があって、灯心に火を灯すものですね。紙で囲った行灯と違って、火も油も見える状態の灯火で、火皿の真下は暗いというわけでした。

きつい色合いが多いツツジの仲間では、何とも優美な風情です。種明かしされてみれば、その名前もなかなか趣があります。この花は、どんな昆虫を受粉のために誘っているのでしょうか。昆虫の眼が人間と同じ色彩を捉えてるとは限りませんので、あるいはかなり違って、派手に魅力を感じる柄かもしれません。中にどれだけ美味しい蜜を秘めていても、外見でそれを印象づけないかぎり、今頃の花の多い季節では、昆虫が訪れてくれないかもしれません。

「人間は外見じゃなく、中身だよ」という人がたくさんいます。見た目に騙されてはいけないと諭す人も大勢います。人間を見る側の心得としてはそれでいいかもしれませんが、何かをアピールしたい側はそれでいいのでしょうか。原発反対や戦争に反対するデモや集会で、若い人達はけっこうそれぞれに明るい自分らしいと思われる格好で参加しています。外見でもアピールしています。

集会や講演会では、年輩者は地味な格好が目立ちます。普段着と変わらない格好、いやむしろ普段より目立たない作業着やジャンパー姿が多いようです。以前、左翼系の集まりでは、いつもはもっと「いい格好」をしている人も、「人民」らしく汚いなりで出かけることがありました。企業戦士として、スーツにネクタイで毎日過ごした団塊世代が、昨日までの自分を捨てて地味〜な姿に変身して、集会に出てきます。

その格好がほんとに自分らしいというなら、他人がとやかくいうことではないでしょうし、それがほんとにその人らしいのであれば、「格好よさも」自然に感じられるでしょう。でも、ただ目立たないなりをしているだけ、大勢に紛れていたい緊張感のなさだけが感じられます。講演会などでは居眠りをしている年輩者の姿が、最近は動画サイトで後ろ姿が映ってしまいます。先日の、国会の院内集会で、海外から来た講演者がビシッとスーツ姿できめて熱意のある話をする後ろで、居眠りをしている年輩参加者のジャンパー姿が映っていました。

市民運動の年輩者が、若い人の参加が少ないことをぼやきます。講演会を開くと平均年齢が70歳なんてことになりますが、ぼやいていてもしかたありません。自分たちの活動が、若い人を引き寄せる魅力に乏しいことを反省すべきです。中身もだいじですが、外見も注意が必要です。見るからに地味〜な群れ、個性の輝きを感じない集団。主催者側であるなら、お客様をお迎えするにふさわしい「なり」に気配りが必要です。講演をお願いする人よりは目立たない方がいいかなと考えながら、でもそれなりに礼節と緊張感のある姿で・・・そんな検証を出かける前にちょっとしてみます。

群れに埋没する外見を選ぶことは、群れの意見に同調する姿勢に通じるような気がします。講演の後の質疑や意見交換の場になると、その時のお話に調和する自分を語る人ばかりで、ディベートを避ける雰囲気が支配します。同じ意見の人がいるという安心感が欲しいのでしょうか。その裏に、社会的には少数者であるという不安があります。若い人達にはこれからの長い人生があり、子育てがあリます。ゴールが見えている年輩者以上に疑問も不安もあるでしょう。頂点に同調する姿勢では、彼らのためらいに応えることができません。集会や講演会を催してアピールし、賛同者を増やそうとしているはずです。それならどうしてアピールする力を持とう、若い人が魅力を感じる活動にしようと考えないのか不思議です。疑問や不安を避けてはいけません。いつも「無謬性」に立って同じ顔で現れる霞ヶ関に住人たちや、その体制を護衛する制服の人たちと、「地味〜な大衆」を装う群れが、重なって見えます。戦中の竹槍・バケツリレーの隣組からいまだに抜け出せないのでしょうか。
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by maystorm-j | 2014-06-12 22:19 | 社会 | Comments(0)
2014年 06月 05日
真っ赤に燃える太陽だから〜〜?
d0164519_542594.jpg子育てが終ってから何十年も経ちます。最近の子どもはどんな太陽を描いているのか知りませんが、いまも太陽は赤々と燃えていると教わっているのでしょうか。落日以外の太陽が赤く見えたことはありませんが、半世紀前のひどい大気汚染が日本の都会を被っていた頃、赤い太陽を見たかもしれません。「白地に赤く・・」と歌わされても、日本の旗を見て、あれが太陽だという風に感じたことはありませんが、シンボル/象徴とはそんなものだと言われるかもしれません。高校生だった時から数えると、3回のオリンピックが国内で開かれていますし、地元長野・軽井沢でもあったようですが、一度も見に行ったことがなく、もちろん会場や沿道で白地に赤い「日の丸」を振ったこともありません。そのうち、祝日の度に外に「掲揚」しなければ非国民と言われる時代が再来したなら、どうしましょうか。

丸というと、正確には円や球をさすのでしょう。一本の長い縄でできるだけ多くの人を括ろうとするなら、その形は円になります。ゴム風船にできるだけ多くの空気を詰め込もうとするなら、形は球になります。引っ括られ、囲い込まれた状態が丸です。マルバツ=OXを思い浮かべるかもしれません。小学校のテストや宿題に、赤い鉛筆で丸をもらうことが、いつの間にか2重丸、3重丸、5重丸、果ては花丸なんていうようにエスカレートしていきます。子供の頃、いいように操られていたそのままに、大人になってもハナマルをもらいたがる人がいます。テストや宿題からとっくに解放されているのに、もう「先生」に丸をつけてもらえないと落ち着かず、自分を誉めてみたり、ご褒美をあげてみたり。講演会の度に、質疑の時間になると、自分がこんないいことをしていますと長々語って、講演者のお褒めをねだる人がいます。優しい聴衆は賛同しうなづいています。

「私たちはいま、静かに怒りを燃やす東北の鬼です・・・・私たちとつながってください」。原発事故から半年後の東京で、6万人の参加者の前で語られた言葉です。ネットの動画でも見られるでしょうし、森住卓さんの写真とともに出版された「福島から あなたへ」(武藤類子著)もあります。感動の涙がどれほどか流されたことでしょう。感動の涙、共感の渦・・・オリンピックで振られる日の丸とどこが違うのでしょうか。「鬼とつながってください」と求められています。ハナマルをやりとりするのではありません。自らが「静かに怒りを燃やす鬼」にならない限り、東北の鬼とつながらない。私は、あなたは、ちゃんと鬼になっていますか?

なかなか最後まで読み切るのに苦労している本ですが、『カラスと髑髏 /世界史の「闇」のとびらを開く』 吉田司著。日の丸の発祥について、古来山の民が狩猟の儀式を執り行うとき、イノシシの心臓で白い紙に描いた血染めの赤い丸、あるいは、イノシシの首を白い紙の上において描かれた赤い血の丸だという記述があります。真偽のほどは判りませんが、燦々と輝く元気な太陽が赤く見えることはないので、「血の丸」かもしれないという気になります。ヤマトによる東北征服以来の日本の歴史を振り返ると、「血の丸」こそがその象徴としてふさわしく思えて来ます。
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by maystorm-j | 2014-06-05 07:01 | 暮らし | Comments(0)
2014年 06月 03日
マスメディアが本当のことを伝えないと言うなら・・
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春になると作業場の中までスズメバチが入ってきます。虫取り網で捕まえて出すのですが、懲りずに何度でもやってきます。網の中でちょっといじめてもすぐに戻ってきますが、スズメバチの天敵であるクマのような風貌の人間が、ガンガン大きな音と振動を立てながら働いている作業場が、巣作りに向いているとも思われません。巣材にする木材なら外にいくらでもありそうです。キイロスズメバチにしてはちょっと大きめなのは、越冬した女王蜂だからでしょう。餌がなくなる秋と違い、今のところ危険は感じません。

5月の最後、31日には久しぶりに一日仕事を休んで、昼間は浅間山北斜面の溶岩地形を登ってきました。群馬大学の先生と学生さんの学習登山に飛び入りで参加しました。時期や順番の異なる溶岩流や火砕流、土石流などの重なりを解きほぐす解説を聞きながら、標高差で700mぐらいの登り。朝食を5時に済まして参加したので、午前中は猛烈な空きっ腹。すぐに、蓄積のある脂肪代謝に移って凌いでいる実感があり、翌日夜でも1kg体重が落ちていました。しめしめです。20歳ぐらいの学生さん、明るくていいものです。こちらは3倍の齢ですから、彼らからは異様に見えたかもしれません。

夜は上田市で、信州沖縄塾の講演会。沖縄の地元紙やテレビ局の報道に較べると、東京中央の新聞・テレビが如何に沖縄を報道しないか、ねじ曲げて報道していることかを、様々な具体例を挙げながら解説していました。テレビを持たず、新聞も取っていないので、沖縄のことはインターネットや雑誌で情報をとっている私にとって、特に新しい話はほとんどなく、会場に集まって拍手する人々が、マスメディアをどのように考えているのかの方が気になりました。いかにマスメディアがデタラメな報道をしているか、現地からの切実な話を聞いて納得し、拍手し、満足して家に帰ればまたテレビをつけるのではないでしょうか。朝になれば新聞を読むのではないでしょうか。

ベトナム戦争報道の頃からNHKの報道に疑問を感じていたので、実家から独立して以来45年間、一度もNHKの聴視料を払ったことはありません。9.11 以後は、テレビを待たない暮し、3.11 以後は新聞も止めました。この15年間、近くにいる多くの人々とメディアと情報について話をしてきました。話せば、ほとんどの人はマスメディアが本当のことを伝えていないと納得されるのですが、では、マスメディアをやめてネットや雑誌に切り替えるかというと、そうしたという人は身近にはいません。「騙されることの罪」と自覚しつつ、騙され続けていくのでしょう。

テレビにもたまにはいい番組があると反論されることもあります。確かにそうかもしれないと思って、NHKのアーカイブをネットで見られるように手続きをしました。しかし、この数年の間、あえて見たいと思うこともないままです。例えて言うなら、行きつけのレストランで、馴染みの料理がずっと偽装食品だったと気づいたとき、騙されたことを本当に悔やんでいたら、そこには偽装ではないメニューもあるからと、そのレストランに通い続けるでしょうか。スポーツや芸能欄で騙されても、まあそんなものかで済ましますが、原発や沖縄や戦争や・・本当に自分の価値観にかかわる問題の報道が嘘だったら、その報道機関を許せるのか。嘘の報道の結果、大勢の人が死んだり、健康を害されたり、差別に苦しんでいるとすれば、そのメディアを見続けることを感情が許しません。やめることはあっけないほど簡単です。やめればいいんです。年間6〜7万円の倹約にもなります。その結果、考えるための情報が足りないと感じたら、いくらでも代わりのメディアがあります。受け身で、次々流れる情報より、自分で選んで探した情報の方が、何かを考える上ではるかに力があります。

原発、放射能、沖縄・・・様々な集会や講演会に行くたびに、これで何か変わるのか疑問に感じます。いい人達が集まって、いい話を聞いて、いい思いを語り、満足し、帰ればもとの暮し。私はこう変える、あなたはどう変えますか、という問いかけと回答のないままでは、「騙されている」ことの安逸が続くだけでしょう。

追記
朝のNHKラジオを聞いていると(早朝のラジオは比較的ましな報道)、今日は雲仙普賢岳の火砕流で多くの犠牲者が出た日と報じていました。浅間山の火砕流は、南側では森林や土地利用が進み、火砕流の上にいるという実感が乏しいのですが、北側の斜面を登ってみて、火山のダイナミックな動きの歴史やスケール感が少し実感できました。現場と的確な解説、短い映像に切り取られた報道にはない時間と体力を要する一次情報の力ですね。
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by maystorm-j | 2014-06-03 06:32 | 社会 | Comments(0)
2014年 06月 01日
ミヤマシロチョウのメスだろうか?
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5月の末、作業場(標高約1,050m)の前で撮ったものです。スジグロシロチョウびしては翅が透き通った感じがして、2枚だけ撮りましたが、いろいろ調べてもはっきりしません。見た目はミヤマシロチョウではないかと思われます。高山蝶のミヤマシロチョウがどうしてここに? 浅間山系では、高峰高原で見られます。1,600m以上の高山にと書いてあることが多いのですが、1000mから上という記述も一つですがありました。数が減っている貴重なチョウのようですが、まだ自信はありません。スジグロシロチョウ、エゾスジグロシロチョウとともに、春型・夏型、オスメス、いろいろな変異が多く、どこにでもいるスジグロだよと言われそうな気もします。

20歳前後の頃は、植物の写真を良く撮りました。やっとカラーフィルムが買える、と言っても高価で失敗は許されず、じっとしていてくれる植物しか手が出ませんでした。30を過ぎてから、野鳥の写真を撮りましたが、エサ台にやってくる鳥以外は、撮影条件が悪く、余程時間をかけてねばり強く待つか、高価な望遠レンズが買えるか、いずれにしても私にはろくな写真が撮れないことがおいおい自覚できました。それに較べれば、デジカメのご時世は天国ですが、相変わらずその天国を楽しむ時間は充分にありませんし、将来ほんものの天国に行くなんて思ってもいません。

こちらから、いい被写体を求めてウロウロすることはありません。たまたま、やって来たものを撮るだけです。この齢になると、すべてそれでいいという気になります。なにかいいもの、おいしいもの、感動できるもの、泣けるもの・・・を求めてウロウロするのは、なんだか浅ましく思われます。それは、若い人たちがすることで、年寄りはたまたま向こうから幸運がやって来た時に、感謝して受取ればいいでしょう。それで結構、やってくるものです。見落とさないだけの経験は積んでいる、と言ってもかなり見落としていることは確かで、後からシマッタと言うことはよくあります。それも、わが感受性はその程度のものとあきらめて、いつまでもこだわらないことですね。
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by maystorm-j | 2014-06-01 21:40 | 自然 | Comments(0)