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2014年 05月 28日
町おこしのイベントにはじき飛ばされる
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25日(日)、朝起きたらメールが入っていました。金曜日から黒部市宇奈月温泉で開催中のグループ展主催者からで、前日の土曜日は来客が多く、作品の説明も出来ず、昼食もとる余裕がなかったという。急遽会場に出かける事にして、着替え、簡単に食べられる昼食を数人分用意し、6時前に出発。天気も良さそうなので、上越市まわりの高速ではなく、長野市から白馬に出て姫川沿いを糸魚川まで下るコースにしました。30分余計にかかりそうでしたが、高速料金の大幅な値上げが不快なこともあって、安上がりな道に。久しぶりに白馬連山の眺めも期待して出かけました。

日曜日で通勤車もなく、順調に長野市を抜けて、ちょっとぼんやりモヤっている山々を眺め、3時間で宇奈月温泉に到着。会場のオープン時刻まで間があったので、宇奈月温泉駅のトロッコ電車、黒部峡谷鉄道を見てきました。遊園地の電車をちょっと大きくしたようなかわいい車両が出発していきます。地図で見ると、途中には猫又といういたく興味をそそられる駅名があったりで、乗ってみたい気持ちはやまやまでしたが、会場の烏帽子山荘に向いました。烏帽子山荘は豪壮な日本建築で、レストラン、カフェ、宿泊、ギャラリーの他、邸内には蔵や茶室がならぶ本格的な造りです。圧倒されるような門構えですが、小粋な道祖神に気分が和みます。

d0164519_5542337.jpg日曜日なので、午前中は客足が遅いのだろうと思っていましたが、昼頃になっても来客はぱらぱら。主催者はなぜだろうかと思案顔。もう一人の作家さんとぼんやり考えながら、何かイベントと重なっているのではと尋ねてみました。それで判明したのが、マラソン大会。道路が交通規制で市内では車で出かけないように通知が行き渡っているということでした。黒部市についたのが8時半頃でしたので、そんな様子はまだありませんでした。

近年、あちらこちらの自治体で、マラソン大会が大流行りです。銀座の展示会に納品の折りに、皇居の横を通って、走っている人の多いのを見ました。各地のマラソン大会では、主催する行政、お接待する地元ボランティアと参加者の一体感が語られます。美しい自然の中、交通規制された走り易い車道で、沿道には飲食と応援。さぞ楽しいに違いありません。時間に追われ、夜の町営トレーニング施設で機械相手に寂しく運動している私には、うらやましいかぎりです。

走っている人は町おこしなどと考えてはいないでしょうが、行政が公金と職員を動員する以上は、何らかの言い訳が必要です。「地域の活性化」、これはイベントのほとんどで語られます。健康増進、知名度アップ、観光集客、地元物産販売、・・・中学生でも書けそうなお題目が並びます。終れば、参加者数やボランティア数、沿道の応援者数・・・経済効果OOO円など、いいこと尽くめの報告が出ます。いかにもコストパーフォーマンスが良いように数字が並びます。ホントでしょうか。

役所の職員はボランティアで参加しているわけではなく、本来の住民サービス業務に代わってイベント業務に就いているのでしょう。動員されるボランティアも、その日の予定を換えて参加しています。お接待に使われるお金は、本来もっと必要なところがあったはずです。生活保護費や教育費補助が削られ、住民サービスが低下する一方で税金が上がる。年に一回、道路を封鎖して車道を走るより、日頃から走り易い道路の整備、車いすでもベビーカーでも通れる歩道、自転車が走り易い道、そんな道路を作っていくのが行政の仕事ではないでしょうか。
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行政がイベントを開催するときは、メリットの計算ばかりが発表されて、デメリットは無視されます。
私の展示会場に人が来なかったなんてことは、デメリットの中では末端の小さな出来事ですが、地元では大きな声で語られるお題目の陰で、黙って耐えていることも多いのではないでしょうか。

by maystorm-j | 2014-05-28 07:29 | 暮らし
2014年 05月 22日
信州沖縄塾「具志堅勝也講演会 IN 上田」 5月31日
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by maystorm-j | 2014-05-22 17:46 | 社会
2014年 05月 18日
ほんとうにだまされたのですか?・・・だまされる罪について考える
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写真はウスバサイシン。仕事場の事務室の外で咲いています。カンアオイの仲間で、漢方薬に使われます。葵と言えば、印籠に描かれた家紋を見せると、悪人が平伏土下座する場面を思い浮かべる人もいるでしょう。当事者で解決できない切羽詰まった曲面になると、お上の権威で解決して欲しがるのは困った国民性なのかもしれません。あるいは、キリスト教国やイスラム教国で「お上ならぬ御神」にあずけてしまうよりはましかとも思います。赤い表紙の毛沢東語録を振りかざされるのも真っ平ご免です。植物学でアオイ科というと、ハイビスカスやオクラも含まれるタチアオイの仲間で、カンアオイやサイシンとは全く別のグループです。

悪いのはちょっと上の「お上」、それを正すのはもっと上の「お上」。強い悪に虐げられる被害者に涙し、悪を伐つ超越者に喝采し、大団円で安堵する。一件落着、万事めでたし。テレビを消して変わらぬ日常、です。年寄りの「黄門様」は、中年の「倍返し」や「地上の星」、こどもの「ウルトラマン」。ついつい悪態をつきたくなるご時世です。

どこに書いたか忘れてみつかりませんが、原発事故の後、伊丹万作さんが亡くなる直前に書いた文章を引用して、「だまされる罪」について考えたことがあります。多くの人々が、戦争責任について書いた伊丹さんの文章を引用し、戦争を原発に置き換え、「原発安全神話」にだまされたことを悔い、だまされた自分の責任を反省していました。それに対して、一般より多少長く理科教育を受けることができた私は、原発の危険を知っていたし、安全神話にだまされることはなかった。それにもかかわらず原発を停める運動をしてこなかった罪は、だまされてた人の罪より重いでしょう。いつか大事故になる可能性を知りながら、とりあえず今日明日は大丈夫だろうと、根拠のないままサボっていたのです。本を読んでいても、積極的に発言していませんでした。

最近、自分も主催する側で参加した講演会で、一人の報告者が伊丹万作の文を紹介しながら、安全神話にだまされてきた罪について語っていました。最初に考えた時点から2年以上経っていますが、やはり今回も何か引っかかるものがありました。だまされる罪を言う人に聞いてみたいのですが、ほんとうに騙されていたんでしょうか。垂れ流される「安全神話」に一度も疑問を感じなかったのでしょうか。神話を語っているお上や学者が、正しい事を言う人達だと何の疑いなく信じていたのでしょうか。政治家は嘘を言うなんてことは、誰でも認識していたのではないでしょうか。

80年以上前に中国大陸で日本の軍部が起こした謀略と侵略が、もし現在再び起きたとしたら、当時の国民より現在の私たちには、その真相を見抜くことがはるかに容易だと思います。現在は事実を伝える媒体がたくさんあります。受取る側は、多くの人が小学校を卒業すると働きにでた昔に較べると、現在ほとんどの人が高校へ進学し、半数は大学に行きます。発行される本や雑誌の数は、100倍を越えるでしょう。事実を知り、真実を探す条件は今の方がはるかに整っています。騙されたのではなく、騙されていたかったのではないでしょうか。

3.11 の後、たくさんの人からマスコミは本当のことを言わない、テレビは嘘を言う、という言葉を聞きました。でも、その後もテレビを見続けてはいませんか。自分から情報を採りにいき、その真偽を見分けるには時間と能力が必要です。インターネットから情報を受け取り、その裏付けを確認し、多くの情報を整理し事態を構造的に理解する作業は、それなりの時間を要し、勉強しなければなりません。3.11 以後、はたしてパソコンの普及が進んでいるのでしょうか。むしろ逆に、簡便なスマホに移っているように思われます。スマホの小さい画面で情報を受取る行動には、マスメディアから垂れ流される情報と同様、じっくり精査し裏付けを取ることがないように感じます。特に、多くの情報から自分の考えを組み立て、文章化して発信し、それをふたたび検証するというサイクルは出来にくく、ツイッターのように短文で直情的な言いっぱなしの発信になりがちです。

自分が騙されていたと言い切ることには、どこか自己欺瞞の匂いがします。気づいていることを見ないことにしていたのではないでしょうか。気づいていることを認めるとやっかいなことになります。楽しい日常の時間が奪われます。騙されていることにする方が生き易いことはあきらかです。でもほんとうは騙されていたんじゃなかった、「わかっちゃいるけどやめられない」だったことを認めませんか。

by maystorm-j | 2014-05-18 08:00 | 社会
2014年 05月 15日
自己表現・自己実現のために仕事?
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「別格山菜横綱」とでもいうべきタラの芽です。軽井沢ではフキノトウに飽きた頃にでますので、人気が高く、庭に植えている(たぶん勝手に実生で生えたものを育てている)人も多いでしょう。特段、強い個性があるわけではなく、似た姿のハリギリ(通称アクダラ)の方がいいと言うひねくれ者もいます。採集する時には、その茎からでる鋭いトゲに気づきますが、お店で買う人、食べるだけの人はトゲの存在など見ていないでしょう。「嫁たたき」などと言うひんしゅくを買いそうな別名もあります。あいだに「を」か「が」を入れるかで大違い。この数年は、放射能が新芽に集中するのか、食べることも躊躇します。

欲が絡むと特にそうなりがちですが、人間は自分の都合の良いところだけが見えるようです。視野に入る事象全てが意識されると、とんでもなく大量の情報を処理しなければならず、人間の脳はパンクするかもしれません。道をまっすぐ歩くことすらままならなくなりそうです。生きていくための方便でしょう。

仕事は自己表現、自己実現であるという論調がよく聞かれます。マスコミやそれに登場するコメンテーターの好む論調です。自分の性格や人間性を多少なりとも自己検証していれば、私のような工芸作家が作るものが自己表現ではなく、いくら作って売れていても自己実現ではないことぐらい、片目つぶっていても気づきます。自分の個性に忠実なものを作ったら、きっと誰も買わないでしょう。自分をモデルに何か作ろうなんて、空恐ろしいばかりです。むしろ、自分にないもの、憧れるものの投影と考える方が近いと思います。

しかし、研究者や調査者の中には、自分が斯くありたいというモデルが先にあって、それを現実世界で実現するために仕事があると思っている人を見かけます。こんな新しい発見をしたい、こんなすばらしい解析結果を発表したいなどと、先にゴールを想定し、それに都合の良い事象を選んで並べて見せます。足りなければちょっと加工したり、他から持って来ても、すばらしい目的に合致していれば何も疑問を感じないようです。まるごと幻想の世界を表現する「芸術」と科学の境がわからなくなります。

仕事の内容で自己表現ができ、その結果得られた名声で自己実現できる「輝かしい自分」は、格差社会の中で押しつぶされている同年代の非正規労働者の群れから突出した存在に見えるでしょう。そこに至る経路の正当性や合理性は小さな問題に思えるでしょう。「社会は私の存在を必要としている」という肯定感。

しかし、ある時それが社会から否定されると、どう振る舞えば良いのか、モデルは崩壊してしまいます。ひっそりと無為の空間に引き蘢るか、輝かしい自分を理解されない悲劇の自分に置き換え、自分の存在を華々しく消し去るか。どちらにしても、あまり良い結末にはなりそうもありません。

私の仕事は、ものを作って、それを使う人に買ってもらえなければ成り立ちません。自己表現のためではなく、美味しい料理を作るための道具です。合理性も脈絡もなしに、まともな働きをする道具は作れないことぐらい、身にしみてわかっています。

by maystorm-j | 2014-05-15 08:36 | 暮らし
2014年 05月 06日
雑感/吉田司を読む・・・下下戦記
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左の花は和名キランソウ。ですが、私には「地獄の釜の蓋」という別名の方が馴染みがあります。地面にべったりと這うその形状からも、この名前は一度聞いたら忘れられません。シソ科の花の多くは穏やかな色合いですが、この花の紫と葉の緑はくっきりと深い色です。地面に円を描いて広がるこの「釜の蓋」を開くと、何が飛び出して来るのでしょうか。写真右側は近くで見たヒメオドリコソウの群落です。同じシソ科の花です。

伊豆の踊り子のようにまだ蕾ながらも個として立つことはなく、みんなおんなじ顔して並んでいます。ラインダンサーでしょうか。禁じられた蓋を開けたら、明るい歌に合わせて次々と踊り子が飛び出して来る幻視。

昔々のこと、水俣でユージン・スミス夫妻に会ったことがあります。胎児性水俣病患者の若い女性を風呂に入れる母親の写真に、若者の多くが打ちのめされます。母親から水銀を我が身に移し、次の子の症状を軽くした少女達の写真は、先天性の障害を持って生まれた子どもを「宝子」と呼んでだいじに育てたという言葉とともに、都会育ちの私を何かに駆り立てる力が有りました。あの写真の母子は、十字架から下ろされたイエスと母マリアだったのでしょう。

「義によって助太刀」するだけの学生にとって、自分より少し若い胎児性水俣病の患者達は神々しく、同じ人間として向き合い行動していなかった気がします。助っ人に出来ることなんて限られています。夜明けとともに裏切ることを予告されていた存在でした。

この1年の間に飛び飛びですが、吉田司さんを読んでいます。正統派の水俣病関係者にとって、あるいは受け入れがたいライターかもしれません。青年になった多くの胎児性患者と、人間同士のつきあいを続けた記録「下下戦記」という不思議な書名。ルポとも言い切れず、フィクションと片付けることもできません。神ではなく人間である胎児性患者と、当たり前の日常として地上・海上で繰り返される悪戦苦闘と抱腹絶倒の日記なのでしょう。

下下戦記の後で読んだ、同じ作家による「宮沢賢治殺人事件」。二つの著作に共通するのは、作家の視線で、後方斜め30度から人間を見る。この視座から見えるものは明るい正面の顔ではなく、暗い後ろ姿を見つめながら、肩越しに行く先が僅かに望める位置。水俣では作家自身もついて歩き、宮沢賢治では時間を遡ってなんとかして裏に回ろうとする。吉田さんの、いかなる角度であれ人とつきあいきるいきかたが、私には欠けている。

by maystorm-j | 2014-05-06 05:48 | 遊び