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2014年 04月 29日
信州宮本塾「農村発・住民白書 第2集 ともに生きる」   「山ぐにの暮しと野生動物被害」その3
信州宮本塾20周年記念発行「農村発・住民白書 第2集 ともに生きる」に書いた原稿「山ぐにの暮しと野生動物被害」を3回に分けて掲載します。
その1その2の続きです。
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[ 戦後の農業は動物のいない世界で始まった ]
戦後、食糧難から食料増産が進められた時には、既に農業地帯には食害を起こす野生動物は鳥類、ネズミ類などの小型のもので、農家自身で対策ができる程度の動物しかいませんでした。戦後、国や地方自治体でも農協などの組織でも、農業政策、農業技術の中に野生動物対策という視点を盛り込む必要がなく、システムも予算もないまま30年ほど経過します。その間、奥山では伐採と植林が大規模に行われますが、伐採地は一時的に草本類が増え野生動物の餌になりました。戦後、民間の銃器は取り上げられて、免許制になります。70年代にはいると、社会が豊かになり、各地に牧場やスキー場が造られ、明るい草地は動物の餌場になります。林道網や観光道路など道路整備も、道ばたに通年で草本類が増え、奥山から動物を里に誘導する経路になってしまいました。

[ 自然保護思想とディズニー的自然観 ]
一方で都会を中心に、70年代自然保護思想が普及します。高度成長で自然破壊が進み、公害問題が顕著になると同時に、人間の健康だけではなく、環境保護、自然保護という考えが立ち上がってきたのは当然な流れでした。絶滅しそうな個別の生物保護とともに、生物学研究者の中では、自然環境とそこにある生態系を総体として持続させようと考える保全生態学の方向が打ち出されていきますが、一般市民の間では野鳥の会に象徴されるような自然愛好・動物愛護思想に流れていきます。私は、戦後の日本人の自然観形成におけるディズニー・アニメの影響がひじょうに大きいと考えています。愛くるしい大きな目の動物がにこやかに登場し、私を愛してとばかりに振る舞います。一方で、悪役にされる動物もいて、肉食動物なら当たり前の行動が悪と決めつけられ、嫌われ排除されてしまいます。動物を善悪・好悪で振り分ける意識を作り、動物からの「媚」を期待させます。目立つ動物が人間と同じような意思をもって行動する物語からは、気候・土壌・微生物・昆虫・・・様々な目に見えない仕組みの中で生き物はそれぞれの位置で生きているという捉え方が育ちませんでした。

[ 山に餌がないから動物被害が増えるのか? ]
増えすぎて農業被害を起こし、駆除される動物を見て、「かわいそう」という反応が都会の人々や、近年都会から移住してきた新住民に多く見られます。山に餌がないから里に出てくるのだと決めつけて、山にドングリを撒いたり、ドングリの木を植えたりする市民運動が流行ります。自然の仕組みを理解しないでドングリを運べば、遺伝子汚染や病虫害を拡げることもあります。山に餌があるから動物が増え、里にもっと栄養価の高い餌があるから里に進出してくるという当たり前の事を理解せずに、愛護意識を満足させるための運動が社会的にも受けるようです。現在大きな問題になっていることに、シカやサルが里に下るばかりではなく、逆に標高の高い所に上がって亜高山帯や高山帯の植生を壊滅的に食い荒らす状態が起きています。佐久地方でも、霧ヶ峰でシカが増え、多くの観光客をよんだニッコウキスゲが極端に減っています。奥山に餌を増やせばそこに定着すると考えるのは愛護家の思い込みです。動物は生存競争の中で生き残る数を確保するために、その環境にある餌の量より余分に子どもを産みます。天敵の少ない大型動物の子どもは餌の条件が良くなればその分生き残り、成長すればそれまでの生息域からはみ出してきます。

[ 棲み分けへの圧力 ]
都会で暮らす人々は日常的に野生動物と接する機会が少なく、テレビなどで紹介される大形動物の映像は多くが山地・森林で撮影されるので、動物の本来の生息地は山だと思われることが多いようです。しかし、クマもシカもサルもイノシシも、逃げ込める連続した林があれば平地の方が餌が豊富で暮らしやすいのです。山地に住み夜間里に出てきていたのは、長年人間に追われていたからです。再び人間からの適切な圧力で、野生動物と人間の棲み分けがはかられる必要があります。「共生」ではなく「分生(棲)」です。

[ 個体数管理、生息地管理、被害管理 ]
10年ほど前から、県単位で特定鳥獣保護管理計画を策定し、生態系の保全と被害防除に行政は取り組んでいます。個体数管理、生息地管理、被害管理の3点を基本に、県内各自治体で対策にあたる態勢づくりが進んでいます。自治体や集落によっては、サル対策などかなりの進展が見られる一方で、イノシシやシカでは個体数の増加に対策が追いつかない状態も見られます。特にシカについては、群れで大きな被害を出し、移動距離大きく、個体数・生息域の拡大が著しいにもかかわらず、対策にあたる猟友会の高齢化などの困難を抱えています。佐久地域でも今後一番に問題になる野生動物と言えます。農業被害にとどまらず、観光資源に対する被害や交通事故の増加による人的被害も増えてくるでしょう。シカの繁殖力は大きく、一年で2割の増加が見られます。一年対策を遅らせると、被害が2割増え、対策費も2割ましになるという事で、ほっておけば4年で全てが2倍になります。

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   (写真3 和田峠下の国道で起きたシカの交通事故)


[ それでも取り残される高齢者 ]
被害管理としては電気柵が有効ですが、費用と管理の手間がかかりますので、出荷する経営農家では普及してきましたが、自家用栽培の高齢者や山間地の小さな畑ではあきらめていくことになるでしょう。行政の対策は、どうしても元気な経済活動を行うためという視点が優先されます。限界集落とよばれる山間地や高齢化している集落に残る人々にとって、先祖伝来の地で、以前と変わらない暮しを続けることが誇りとなっています。人手不足や高齢化で集落周辺のやぶの刈り払いが出来なくなり、やぶは動物の隠れ場になり、収穫できず放置された柿の実がサルやクマを呼び込むようになってきました。自家用栽培の畑ができなくなる事は、少ない収入で買わなければならなくなるだけでなく、子や孫に野菜を贈る楽しみを奪います。生活習慣が崩れ、家に引きこもる事が多くなります。集落の中でかろうじて自立した暮らしをしてきた高齢者に、最後のとどめを刺すことになりかねません。収入の少なさよりも、交通の不便さよりも怖いのは、そこで生きていく意欲が削られることのように思います。

[ 最後に ]
行政と民間により長野県ではかなり充実した対策が取り組まれています。サルの被害については一定の効果をあげています。クマについては人身被害という厳しさと、地域によっては絶滅が心配されるという両面で、慎重な取り組みが必要ですが、県内の研究者の多くが「信州ツキノワグマ研究会」に所属し、行政と連携しながら実際に対策の現場でも主導的な役割を果たしているということに希望が持てます。http://www.geocities.jp/shinshukumaken/
イノシシについては、里での捕獲が重要で実績はあがっていますが、対策にあたる猟友会の高齢化など問題もいろいろあります。一番の課題はシカ対策で、人員、予算、システムの強化が必要です。農業被害だけでなく、一度破壊されると復活に長い年月がかかる生態系破壊という新しい問題が起きています。
研究者・専門家と県の行政が比較的充実している長野県ですが、市町村の取り組みはまだ足並みが揃わず、一般住民の意識はまだ不十分です。今後、広報活動により理解を進め、猟友会などの民間対策従事者を増やすとともに、被害が起きること自体が、更なる被害を誘導しているという被害者の自覚に基づく対策が望まれます。

軽井沢におけるサルの様子や被害状況などは、私のつたないブログですが、軽井沢サル・ネット「軽井沢のニホンザル」をご覧下さい。
http://sarunet.exblog.jp/ 

by maystorm-j | 2014-04-29 20:56 | 自然
2014年 04月 28日
信州宮本塾「農村発・住民白書 第2集 ともに生きる」   「山ぐにの暮しと野生動物被害」その2
信州宮本塾20周年記念発行「農村発・住民白書 第2集 ともに生きる」に書いた原稿「山ぐにの暮しと野生動物被害」を3回に分けて掲載します。前の記事「その1」の続きです。
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[ 市街地でおきる被害と対策 ]
軽井沢のサル被害は、市街地・住居侵入と農業・家庭菜園食害に大きく分けられます。住居侵入については、ドアや窓の鍵掛けを徹底すればかなり防ぐことが出来ますが、市街地や商店への侵入は追い払うしかないので、人の手を要します。道路での接触事故も毎月発生し、ハンドル操作を誤れば人身事故につながります。観光客の餌やりなどで一番の繁華街である旧軽井沢地区に頻繁に侵入し、地区町内会あげての取り組みが行われました。平均年齢60才を過ぎた男性住民30名ほどが5〜6人ずつ曜日ごと班編成し、毎朝薄暗いうちからBB弾銃や爆竹・ロケット花火をもって集まり、まだ目覚める前の群れを叩き起こし、被害の少ない地区外へ追い出していきます。100頭近い群れですが、飛び道具を持つ5人ぐらいの手慣れた集団で、ほぼ市街地のはずれまで時には1km以上、朝飯前に追い立てることが出来ます。町内会の対策リーダーと私は、ほぼ毎日朝夕現場に行きました。2年間続けた後、3年目になると旧軽井沢地区繁華街への侵入は、街路樹の桜の実が熟す季節を除くと、ほとんど無くなります。はっきりした効果が見られる対策で、やる方も楽しめる方法なのですが、サル以外の動物には無理でしょう。サルは怖がる女性をバカにして向ってきますが、BB弾銃を持てば年輩の女性にも追い払いが可能です。価格は2万円ほどですので、行政による補助がのぞまれます。

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   (写真2 旧軽井沢地区の民家に群れるサル)


[ 農業・家庭菜園の被害と対策 ]
農業・家庭菜園被害については解りやすそうに見えて、意外と複雑な背景が、対策に取り組むほどに現れてきます。被害額そのものは決して高い金額ではありません。寒冷地のため収穫期間が短いこともありますが、ある年に群れが一年間起こした食害の簡単な統計をとりましたが、100万円に達するかどうかという数宇でした。ほっておけばもっと被害が出たのでしょうが、統計を取るためにとは言っても、目の前でトウモロコシを食べるサルを追わないわけにもいかず、追い払った後で戻って被害状況を確認すると、もろこし100本で5000円とカボチャ5個で1000円かな、ということになります。

[ 被害意識と被害額は比例しない ]
被害金額の高低とは関係なく、被害意識はひじょうに高くなります。手間ひまをかけた農産物が昼間、目の前で喰われる悔しさ。子どもや孫に食べさせようと家のわきの菜園で育てたものが、収穫直前にとられ、屋根の上で悠然と食べるサルの姿を見るのですから、被害金額では算定できない大きな被害意識が生じます。その現場に都会風の人間がのこのこサルについて観察や調査をしていれば、被害者から「お前等、愛護派か!」と怒鳴られるのは当然の成り行きです。走り回って追い払い、BB弾銃を撃ち、屋根に向けてロケット花火を飛ばし、追い払った後で被害の写真を撮るのですが、自分で追い払えなかった悔しさや恥ずかしさから、いつの間にか畑の持ち主がいなくなっていることもたびたびです。
しかし、追い払いを続けているうちに、畑のわきで「明日収穫しようと楽しみにしていたのにせつねえなあ」と話しかけられたり、「サルも子ども育てなければならないしなあ」と、おやおやという話もでてきます。

[ 被害者自身が行う対策と高齢者 ]
元気な被害者ならば追い払いの後で話が出来ます。畑の主がいつもおっかねえ顔して追うのが一番だねとか、役場のサル位置情報をインタ−ネットやFMラジオで確認してねとか、近くで花火の音がしたら用心して下さいとか、この畑なら電気柵で囲うと効果的だから役場の半額補助を申請したら、などとやりとりします。困るのが高齢者の菜園です。自分で追い払うのは容易でないが、他人の世話になってまで畑をやりたくない。自分が食べる分だけなので、電気柵のお金をかけたくないし、管理維持する力もない。対策をしなければならないぐらいなら、畑をやめて店で買うと言いながら、なかなか遠くのスーパーまで買いに行けないので、次の年もぼやきながら畑に種を蒔く。戸も窓も閉める習慣がなく、サルに侵入されて饅頭もミカンもとられる。野良で年寄り同士が立ち話することも減り、無力感からしだいに引きこもり、自立した暮しができなくなっていきます。限界集落とよばれる高齢化した地域で、自立して暮らす年寄りの誇りを奪い、最後にとどめを刺すのは、経済の問題より野生動物ではないかと想像しています。サルの被害は、昼間目に見える形で起き、被害額が小さい割には対策の不備や集落内の人間関係など、いろいろなことがわかるのですが、イノシシと特に近年増えているシカの被害は、夜の間にブルドーザーでやられたような感じがします。被害対策という狭い現場の問題だけでなく、生息する環境や個体数・密度の管理など、より広範囲の対応が必要になります。

[ 野生動物と人の暮しの歴史 ]
四方を山に囲まれた信州といはいえ、いくつかの平な盆地があります。信州宮本塾が活動しているのはその一つ、佐久平とよばれる信州の東端にある平地部、標高600m〜1000mの高原です。周囲は浅間山系、八ヶ岳連山、霧ヶ峰、奥秩父連山などに囲まれ、どの市町村も千曲川とその支流が流れる平地部から、標高2000mを越える山間部にいたる変化にとんだ土地の上に成り立っています。比較的新しい火山地形のため、裾野を浸食して流れる川の水面が低いところでは、水利が悪く稲作ができずに、畑作中心の農地がかなりあります。古くは朝廷の牧場として馬を生産していました。現在は高原野菜や果樹栽培が発達しています。

[ 食料でもあった有害動物 ]
有史以前から佐久平は交通の発達したところで、縄文時代には和田峠で産出する黒耀石が遠く太平洋岸まで運ばれています。1950年代、私が小学生の頃に住んでいた世田谷の畑でずいぶん和田峠産の黒曜石の矢じりやかけらを拾いました。縄文時代には野生鳥獣は人間の食料として歓迎されていたのでしょうが、農業の発達とともに食料を荒らすものとして敵対関係が進んでいきます。山間地では野生鳥獣は有害動物として駆除の対象でもあり、同時に食料だったと思われます。また、毛皮や角、干し肉や熊の胆など商品性もあったでしょう。民間での狩猟と同時に、幕府や武家の巻狩も行われ、頭数の管理と棲息地の管理が行われていたようです。

[ 多くの火縄銃と予算が動物対策に ]
縄文時代の交易ルートから古東山道、東山道、中山道と時代が進んでも、佐久平は常に「一級国道」が通るところであり、荷物の運搬も盛んでしたので、危険な野生動物の管理は行われていたと思われます。日本史の教育では「秀吉の刀狩り」以後、農民は武器を取り上げられたと教えられていますが、実際は大量の火縄銃が農村に残されています。その管理は農村の自治組織に委ねられていて、領主や武家が所有していた数より民間の方が多かったとも言われています。野生動物から農業を守る有力な手段でした。地方によっては、山から侵入する大型動物を防ぐための「しし垣」が、山林と農地の境に延々と築かれました。江戸時代の中山間地域農村自治組織の予算の多くの部分が、野生動物対策費だったという調査報告もあります。

[ 村田銃と毛皮需要で崩れたバランス ]
明治期になるまで中山間地域の農村は、絶え間なく野生鳥獣と闘いながら、同時に食料として利用し、商品としても産出していました。二千年にわたってそれが持続したのは、人間と動物の間に一定のバランスがとれていたと言えます。しかし明治になると、人口増加、食料増産、村田銃の普及で力関係が圧倒的に人間の優位になり、強兵政策と輸出用に毛皮の需要が増え、大量捕獲が進み大型動物は奥山に追いやられていきます。オオカミが絶滅し、カワウソやカモシカの乱獲が起きます。

[ 戦後の農業は動物のいない世界で始まった ]
戦後、食糧難から食料増産が進められた時には、既に農業地帯には食害を起こす野生動物は鳥類、ネズミ類などの小型のもので、農家自身で対策ができる程度の動物しかいませんでした。戦後、国や地方自治体でも農協などの組織でも、農業政策、農業技術の中に野生動物対策という視点を盛り込む必要がなく、システムも予算もないまま30年ほど経過します。その間、奥山では伐採と植林が大規模に行われますが、伐採地は一時的に草本類が増え野生動物の餌になりました。戦後、民間の銃器は取り上げられて、免許制になります。70年代にはいると、社会が豊かになり、各地に牧場やスキー場が造られ、明るい草地は動物の餌場になります。林道網や観光道路など道路整備も、道ばたに通年で草本類が増え、奥山から動物を里に誘導する経路になってしまいました。

by maystorm-j | 2014-04-28 07:33 | 自然
2014年 04月 27日
信州宮本塾「農村発・住民白書 第2集 ともに生きる」   「山ぐにの暮しと野生動物被害」その1
信州宮本塾20周年記念発行「農村発・住民白書 第2集 ともに生きる」に書いた原稿「山ぐにの暮しと野生動物被害」を3回に分けて掲載します。
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[ はじめに ]
農村の暮らしについて、特に中山間地域とよばれる平地が少なく、農業の生産条件が恵まれない地域の暮しは、戦後から今日にいたるまで大きく変化しています。農林業経済学や社会学からの解析はいろいろ行われていますが、環境や暮しの変化を理系や技術系の目で見たり、暮らしている人々の考えや心理を捉えることは、意外にできていないように感じます。「白書」ということではありますが、農業被害を生じる野生動物と山ぐにの暮しとの関係を、私自身の体験を含めて、できるだけ平易に、数字に頼らず見取り図を見るような感じで書いてみたいと思います。

[ 新・旧住民の自然観 ]
信州軽井沢に移り住んで既に35年ちかくになりますが、この数年は軽井沢に限らず、佐久地域全体でも都会からの移住が目立っています。新しく農業を始める若い人や新幹線と高速道路で変化していく新興商業地での雇用があるのですが、同時に団塊世代を中心にリタイア組のUターンや新住民とよばれるここでの仕事を目的としない世帯の移住も多く見られます。

元からの住民も新しい住民も、皆さん一様に「自然が好き」と言います。本音では嫌いな人もいるのではないかと思いますが、表立った答えはみな「信州の自然はすばらしい」と言うことになるようです。では、そこから一歩踏み込んで、「熊、鹿、猪、猿などの野生動物は好きですか?」と聞くと、とたんに反応は様々に分かれていきます。恐い、憎い、嫌い、殺してほしい・・・かわいい、かわいそう、大切、共生したい、まで極端に幅広い反応が返ってきます。一人の人の中でも、両方の気持ちが混在することがあります。抽象的に自然と言われると自然のいいところだけを見て好きと答えるのでしょう。自然の具体的な要素に対する気持ちには、その人の暮しぶり、自然との関わり方が浮かび上がってきます。

[ 70年代以降の自然保護運動とのかかわり ]
1970年代に生物学、森林生態学などを10年ほど学んだのですが、研究者への道をあきらめて信州に移住し、現在も続けている工芸の仕事を始めました。その後も折々、自然観察会や探鳥会などを続けてきましたが、活動のスタンスは70年代の自然保護運動の延長でした。70年代当時住んでいた丹沢山系でも、既にシカによる林業被害が出ていたのですが、依然として絶滅しそうな生物を保護するという考えが中心だったということです。山の中で進行していた野生動物の変化に気づかず、人間が自然を破壊している、野生動物は被害者だという一方的な見方です。例えば、今でも多くの方々は、イノシシやシカを夜行性の動物だと思ってはいませんか? 奈良公園のシカを思い浮かべればすぐに解る事ですが、人間からの脅威がなければこれらの動物は昼間も活発に活動します。人間との直接的な関係や人間社会にある餌によって、動物の行動や生態は徐々に変わり、90年代にはいると急激な変化がおこります。

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    (写真1  昼間も人里で行動するイノシシ)

[ 軋轢ということば ]
クマが人里に出没し、ときには人身被害を起こし、イノシシが市街地を駆け回り、サルが東京の23区内にまで姿を現し、シカと衝突した自動車が大破する。そんな報道がこの10年、かなり増えてきたことにお気づきではないでしょうか。日本のような狭い国土に高い人口密度で人が暮らす国で、多くの大型野生動物が生存していることは誇るべきことですが、その動物達の生息域の周辺で暮らす人々の間では、困る・恐い・憎らしいという反応が見られることも事実です。その現場では、ともすると駆除を要求する被害者の声と、保護を呼びかける都会の人の声がぶつかり合うことがあります。不毛な衝突から、実効性のある管理システム、「ワイルド・ライフ・マネイジメント」に進むために、現在の状態を人間と動物の「軋轢」という言葉で捉えることが有意義だと考えています。どちらが悪いというのではなく、人間の暮しと動物の行動が起こす軋轢を、どのように調整していくのかを考えていこうということです。(軋轢という言葉は読み書きが難しいため、適切な表現の割には使われないのが残念です)

[ 軽井沢でサル対策と関わる ]
2000年代に入ると、軽井沢でも市街地にサルの群れが侵入し、農地や家庭菜園でも食害が顕著になります。もともとサルの群れが存在しなかったところに、群馬県境を越えて侵入したものですから、「保護すべき自然」ではないということで、2004年には県と町から群れの全頭駆除という方針が提起されます。当時は旧軽井沢など観光商業の中心地にも侵入し、店や家屋を荒らし、交通事故や糞尿被害などが多発します。日光でサルによる人身被害も報道され、観光客の減少を怖れる行政が、全部殺そうと考えたのです。

[ 軽井沢群の全頭駆除方針 ]
この全頭駆除方針はひじょうにショッキングな提起でした。疑問を感じた町民が数十人集まって、一部からは全国全世界に呼びかけて反対のメールやファックスを役場に殺到させようという提案もでました。温泉を楽しむサルの写真がスノー・モンキーとして世界の動物愛好家に知れわたっていた当時の状況を考えると、ただ駆除方針をくつがえすだけが目的なら、有効な戦術だったと思います。しかし、地域社会の問題を、他からの数の圧力で変えたとしても、実際に起きている軋轢の解決にはつながらないことは明らかです。

一方で、群れのサルを全て殺せば被害は解決するのかという疑問もあります。軽井沢群とよばれる100頭ほどの群れは、東側の群馬県境から上ってきたものです。群馬県側にはいくつもの群れが棲息していて、群れの数も頭数も増え、一番標高の高いところにいた群れが軽井沢に進出してきました。押し出されたとも言えます。軽井沢群をなくしても、いずれまた群馬県から次の群れが上がってきて、定着することが考えられ、既に碓氷群とよばれる群れが県境を越えてたびたび侵入していました。また、全頭駆除を進める過程で、軽井沢群の社会構造が壊れ、小群に分散して佐久地域の果樹栽培地帯に進出して増える懸念もありました。

[ 被害者の話を聞くこと ]
直前にサルの群れの実態調査を行った地元のNPOや東京の自然保護団体、長野県庁や地方事務所で対策にあたっている部局など、多くの関係者と話しあったり、学習会を行いました。この活動の参加者は多くが新住民で、実際に被害に遭っている地元の人の参加がほとんどありません。そのままでは「かわいそう」と「憎い」の対立が解けることはありません。水俣を始めとする各地の公害問題からから学んだのは、何よりも被害者の言葉を現場で聞くのが出発点だということです。しかし、理念や思いが先行しがちな新住民にはそれができません。現場で被害農家から「お前等、愛護派か!」と怒鳴られたとたんに腰が引けてしまいます。結局、当時既に25年軽井沢に暮らし、子ども達を地元の保育園、学校に通わせた私だけが残ってしまいました。新住民の取り組みで皆殺しは避けられたのですが、その後被害をどうするかという問題には手が付けられませんでした。


・・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

by maystorm-j | 2014-04-27 10:28 | 自然
2014年 04月 24日
「芸を売って生きる」ことについての雑感
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もう、コブシが咲き始めるという春の早朝、所々に霜が降りた草むらを撮影しました。画面には4〜5種類の草があるなかで、中心部の1種類だけに霜がついています。「霜が降りる」という言い方のとおりに、空から霜が降って来るものなら、他の草も均等に霜に被われそうです。実際は、低温で過冷却状態になった空気中の水蒸気が、何らかの刺激で氷結したもので、中心部の草にはその刺激となる物理的あるいは化学的な「個性」があるのでしょう。

20歳の頃から45年以上、ずっと「芸を売って」生きて来ました。最初の数年は、町の小さな印刷工場で、レタリング、レイアウト、製版、印刷、製本などの雑多な工程を、アルバイトとして何でもやっていました。当時、町工場でも活版からオフセット印刷へと変わっていく時期で、活版印刷の熟練工にまじって、新しい技術を導入する役もありました。「一芸」に秀でていないことが、かえって良かったのかもしれません。貧乏な町工場が購入できたのは、自動化されていない極めて原始的で中古の道具ばかりで、おかげでオフセット印刷の全工程に、その原理を理解しながらかかわることが出来ました。

その後に始めた工芸の仕事も、何の修行もすることなく、制作の原理や工程を理解して作り続ける過程で、技術は次第に洗練される(に違いない)というスタンスで続けてきました。正しいやり方を教わったことがないので、技術の適不適は思い通りのものが出来るかどうかで決まります。元請けや仲買、お店が要求する品物を納品するのではなかったので、お客様が選ぶかどうかで作ったものの評価が決まります。それについては40年の間、何も変わっていません。

20年以上前だったと思いますが、近くに「一芸入試」なるものを導入した大学がありました。多くの教科にわたる入学試験を点数だけで評価することが問題視され、個性的な学生を拾い上げようという試みです。面接だけで判定する大学や、高校時代の活動で判断するなど、従来の試験制度とは異なる試みが出始めます。全体の傾向としても、試験科目を減らす方向になります。

音楽やスポーツでは子どもの頃からの修練や天賦の才能が評価され、「一芸」で判断できることもあるでしょう。それでも欧米の音楽家が異るいくつものジャンルの音楽や楽器をこなしたり、一流の選手が気軽に他の種目を楽しんでいるのをみると、3歳の頃から親のきめた「一筋の道」を盲進して来る日本の「一芸」の幅のなさが気がかりでした。つまらないなあ、と感じます。雑多な教養に触れない純粋培養で育って、自分を客観視できるのだろうかということも気がかりです。

近年、恵まれたインテリ家庭で育った若い人が、仕事を自己表現や自己実現と捉えているのも気になります。食うために仕事をしていれば、自分が労働力として評価されるか、産み出す成果が売れるかどうかという外部からの評価と、結果に自分が納得できるかどうかの内的な評価が並行します。生きて行くための仕事ではなく、自分らしさを創出するためであれば、「個性的」「自己流」に対する外からの検証は不要で、自己評価だけになります。適正な能力や成果を目指すのではなく、何か人と違う表現をすることであるなら、そこにいたる過程や技術が適正か合理的かを検証する必要もありません。先に自分が言いたいことがあって、それに合う結果が誘導できればいいことになります。外部の広い世界の中で自分がなにものなのかを考えずに、自分らしい生き方にこだわっているように見えます。


工芸という一見、自己表現の世界と思われがちな仕事ですが、たえずお客様やギャラリー・関係者の眼にさらされて、微調整を加えながら(改良できる所もあれば譲れない部分もあります)この齢まで何とかぎりぎりで続けてきました。

by maystorm-j | 2014-04-24 05:37
2014年 04月 21日
「野次馬がゆく」 後半  軽井沢史友会「史友 第5号」より
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前の記事冒頭の写真では、アセビは毒、カキドオシは食べられます。今回の写真、彼岸花の仲間スイセンは食べられず、ツクシは食べられます。しかし、なぜか軽井沢ではツクシを食べる人がほとんどいません。食べたことがあるという人でも、頭は苦いから茎しか食べないと言います。あの苦みが美味しいのに・・・!?

・・・・・・・・以下は前の記事の続き、「史友」に投稿した文章の後半です。・・・・・・・・


さて、時代はずっと下り、現代に直結する軽井沢の過去を覗いてみます。ひょっとするとどなたかの曾祖父母あたりの話になりますので、いいかげんな事を書くなと怒られるかもいしれません。たかが野次馬の覗き見とご容赦ください。明治が近づく十九世紀には、幕藩体制・封建制度のもとでも、飢饉のとき以外は農工商それぞれに暮しを楽しんでいたようです。お伊勢参りにかぎらず、ツアーを組んで旅行したり、地元に芸人や相撲を呼んだり、農民歌舞伎に興じたり、詩歌文芸のサークルがあったりで、現在の町の文化活動や公民館活動とあまり変わらない様子。

明治維新で中山道の往来が減り、軽井沢は寂れていったと言われていますが、はたしてそうでしょうか。参勤交代の利権に与っていた宿場の旅籠はともかく、庶民の旅行者が減ったとも思えませんし、政治の激動期・制度の改革期ならなおの事、人と物の行き来は活発になったのではないでしょうか。大政は奉還され、維新にともなう内戦は、東北・北海道を除くと実質、鳥羽伏見と上野の二日間で終ります。律令制が東・北へと進むにつれて、交通網の整備と往来が活発化したことが、明治維新でも再現したと思っています。

リゾート地としての軽井沢を賛美する人々が必ず持ち上げる人物に、アレクサンダー・クロフト・ショーという宣教師がいます。明治一九年、「たまたま」日本海へ布教に向う途中で軽井沢を「発見した」いたるところに書かれています。寂れた軽井沢の救世主と讃えられています。別荘地軽井沢の生みの親です。

維新当時の中山道では官軍内の内ゲバも有り、一時騒然としていたようですが、明治一〇年ごろから国情が定まるにつれて軽井沢にも殖産興業の機運が起こります。明治七年には、富岡に出来た官営の製糸工場に小諸から大勢の若い女性が軽井沢を下っていきます。矢ケ崎から東に下る新国道が出来たのは一七年。横川駅の列車に合わせていくつもの馬車が追分から往復します。二一年には直江津・軽井沢間の鉄道が開通し、横川までの鉄道馬車が運行。雨宮敬次郎などの実業家達が軽井沢の開発に着手する時期です。寂れて困ったのは旧中山道軽井沢宿(旧軽井沢)の旦那衆だけで、他は新時代の到来に合わせて活動を開始していたのではないでしょうか。

明治政府が東京と直江津間の鉄道や国道の整備を急いだのは、維新直後からの朝鮮をめぐる侵略競争という背景があります。討幕運動内にはもともと征韓論があり、維新とともに新政府の基調となっていきます。明治八年には江華島事件を起こし、朝鮮への介入を開始。中国(清)と競って影響力を高めていきます。当時、ロシアの南下を封じる思惑もあって、中国を標的とするイギリス帝国は日本をロシア対抗する「駒」と見ていたのではないでしょうか。明治政府にとっても、日本海に直結する鉄道と道路は急務の国策でした。もちろん、別荘地軽井沢開発のための土木事業ではありません。

明治一七年、朝鮮王朝では金玉均のクーデターが起こります。維新に倣う開明派の乱ですが、背後で支援したのが福沢諭吉や後藤象二郎です。在野の強力なフィクサー福沢は一貫した朝鮮蔑視で知られています。金玉均への支援も朝鮮政権の日本側への取り込みを見据えたものでしょう。その後の日清戦争を福沢は強力に支持していますが、日清戦争時一番多くの死者は日本軍でも清国軍でもなく、日本軍に虐殺された朝鮮の農民蜂起だった事を知らないはずはないのです。

さて、いきなり福沢諭吉が出て来て、軽井沢となんの関係がとおもわれるでしょう。「軽井沢の救世主」とされるアレクサンダー・クロフト・ショーは来日当初から福沢と強い関係を持っています。明治六年に来日し、翌年には福沢家の家庭教師となり、福沢家の隣に洋館を建ててもらい住んでいます。また、イギリス公使館の専属宣教師となり在留イギリス人の精神的な中心にいる人物ですから、今ならアレッと思う行動です。ショーは民間の宗教家ではなく、イギリス国教会が異民族の教化・宣撫を目的に派遣する国策宣教師です。聖公会は大英帝国の重要な車輪の一つ。新政府の主流とは違い、福沢はイギリスを手本に、経済・金融・資本を国家の中軸と考える近代的帝国主義者でした。イギリスが福沢に近づくのは必然で、宗教嫌いの福沢にとってもショーは「使える人物」だったのでしょう。

ロシアに対抗して大陸進出をはかる明治政府にとって、日本海に通じる最短ルートを整備する必要がありました。飛行機のない時代、海軍が軍備の中心ですから、欧州列強の海軍から攻撃されない内陸ルートが望まれます。王政復古の明治政府が千年後に考えたことは、律令制の時代にヤマト朝廷が考えた「道」と、その本質は変わらないのでしょう。東京・高崎から軍を一日で日本海に移動させるには、碓氷峠の克服が最大の課題。時代背景と地理的条件を見るなら、軽井沢が寂れるはずがありません。

もし、ショーに会えるものなら、聞いてみたいものです。後世の軽井沢では、リウマチの保養とか、祖国カナダに似た風景とか言われていますが、箱根でも那須でもなくなぜ軽井沢だったのでしょうか。軽井沢に築いた別荘ソサイエティーで、各国要人、皇族、政府高官、財界人、宗教家達とどんな会話が交わされていたのでしょうか。私にはショーがインテリジェンスの世界で極めて優秀な人物と見えます。政治や外交の裏舞台における軽井沢の役割はショーの死後、第二次大戦を通じても、さらに今日も変わらないのかもしれません。

縄文時代からの一万年にわたる軽井沢の「道」を行く人々と思惑を、午年正月、野次馬の酔眼で覗き見しました。歴史ど素人の戯言(ざれごと)、最後までおつきあいいただきありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・終わり・・・・・本年正月に書いたものです・・・・・

by maystorm-j | 2014-04-21 12:43 | 遊び
2014年 04月 20日
「野次馬がゆく」 前半  軽井沢史友会「史友 第5号」より
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本年3月に発行された軽井沢史友会会報「史友 第5号」に投稿した文章を、2回に分けて転載します。(縦書きの文章を横書きに変えますので、多少読みづらいところがあります。ご容赦下さい)

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  野次馬がゆく                寺山光廣
二〇一三年後半になって、私は軽井沢町内で活動する二つの歴史愛好家達のサークルに突然参加しました。それまで、郷土史に特段の興味があったわけでもなく、中学高校では歴史は苦手科目。軽井沢に住む時間が既に人生の半分以上になるにつれて、この町の有りようを少し見直す気持ちが底流にはありましたが、他の人々はどんな風に見ているのか、ちょっと覗いてみようという程度の気楽な気持ちです。

三十六年前、子どもが小学校に上がる春に合わせて移住した軽井沢。信州といっても街道筋の別荘地なら他所者も入れるのではないかということ、東京まで各駅列車でも日帰りできるという条件を考えました。当時は、子育て現役世代の移住は珍しく、ペンション2軒に続いて3番目と役場で言われました。周囲からは「旅のもん」と言われ、どうせ次の冬には逃げ出すだろうとひやかされる始末。夏仕様の小さな小屋住まいでは、今の建築とは比べ物にならない厳しさがあったのは確かです。

今も続いているようですが、当時「軽井沢文化協会」という町民・別荘民ともに参加する団体があり、浅間山米軍演習地に反対する運動からの流れが残り、町の歴史や地域社会と町政の負の面も考え、変えていこうとする気風がありました。観光地としてのすばらしい自然を謳いながら、平然と破壊されていく自然。金と利権に動かされる行政は、列島改造論の直後どこでも見られた事ですが、軽井沢は近隣に較べると東京に直結しているだけに、地元の良識では制御しきれないスケールを感じました。

ものごとには表と裏がある。大人ならそんな事は解るだろうと言われそうですが、ミッチーブーム、別荘開発巨大資本、新幹線、長野五輪、バブル景気など、外からの力でふくらんで来たのが軽井沢です。町民の力量をこえて表の意識が増大し、なにごとも「軽井沢礼賛」から出発して考える習慣が蔓延しています。裏は見ない言わない聞かない虚飾の町。近年、近隣の市や町が住民の力で少しずつ変化していく中で、軽井沢だけが今も無反省に増長しているように感じられます。

小学校時代、東京で多摩川の丘陵地帯に住んでいた私は、当時陸稲(おかぼ)などの畑作が多く、何も植わっていない時期の畑で土器や石器を拾っていました。長い年月耕された畑でも、5センチほどの縄文土器のかけらが邪魔になるのでしょう、畑のわきに放られているのをたくさん拾う事ができます。土器の表面に残る五千年前の縄目や人間の爪痕にドキドキ。強い雨が上がった朝、畑に行くと、土の表面に浮き上がった黒耀石が朝日でキラキラ輝くのを見つけるという方法を自分なりに考案し、時には矢じりに成形されたものもありました。信州の和田峠や伊豆から運ばれた黒耀石と聞かされて、そこへ行けば小さなかけらではなく、大きな原石がごろごろ手に入るのではないかと。いつかは行ってみたいと思いながら、信州に移住して以来すぐ近くにありながら、いまだ行きそびれています。遠くから憧れている方が幸せ、と言うようなロマンではなく、ただの「ずくなし」です。

軽井沢も和田峠も、本州では一番の内陸地といえるでしょう。海の幸や塩のない土地に、なぜ縄文人が住んでいたのか。誰がどんなふうに黒耀石を関東へ運んだのか。和田峠の石工が篭に背負って下ったのか、海辺の人々が海藻や貝を干して運び黒耀石と交換したのだろうか。あるいは軽井沢のような境界の峠に交易を専門とする運送者がいたのでしょうか。近年、遺跡発掘が進み、DNA 解析を取り入れ、考古学は縄文時代を、以前の見方よりもずっと社会が発達し、広く栽培や生産活動、交易が進んでいたと示しています。軽井沢の峠道は、関東平野への近道で、時代によっては気候が今より暖かで海面が高く、東側に海が近かった事も考えられます。有史はるか以前から、軽井沢は「道」の地だったのでしょう。できることなら、当時の暮しぶりを覗き見してみたいものです。

弥生文化が稲作をもたらし東へ進むルートを地図上で考えると、近畿から東海、関東へと思うのが自然です。広い関東平野は生産力が高まり、古墳時代には、北関東に大きな勢力が形成されていたと言われています。その時代、軽井沢はどんな位置にあったのでしょうか。古東山道と呼ばれる「古い山の道」を人々はどんな目的で何を運んで通っていたのでしょうか。ヤマトの側から見れば、まず伊勢湾からむこうはあづま=辺境。岐阜(飛騨)は鄙(ひな)。統治が一歩進めば次はしな野(鄙野)。辺境の地という見方は、反対側から見るなら境界の地。時には貢ぎ、時には武力で守らなければならない国境です。東の強大な毛国・異国(けのくに)、毛人(けひと・エミシ?)にとって、軽井沢の峠道と高原の住人は自国か他国か。暖かだった縄文期にくらべると、生産力の低かった時期の軽井沢は、道の要という位置をどう保っていたのでしょう。東・西・南の勢力の接点として、揺れ動いていたのかもしれません。

鄙野が信濃国としてヤマトに経営される時代、諏訪地方からまっすぐ北関東に下る古東山道のルートから、新しい東山道と国府が生産力の大きい松本や上田地方に移るのは政治の原理。軽井沢をはじめ佐久地方の稲作不適地は馬の生産牧場になります。律令制の時代、東から北へと領土を拡げる倭(ヤマト)にとって、人・兵、物資・税、情報・命令の伝達ルート確保は最重要課題。自然の道が発展した古東山道に対して、当時の高速道路・東山道は規格化され幅が広く、直線道路で、道路機能のみならず朝廷の権威を誇示するものでした。軽井沢の峠をどのように越えていたのでしょうか。東北の良馬をつれて都へ上る役人や、税として納める物品を背負って上る庶民の目に、峠の先に広がる軽井沢の草原と煙を吐く浅間山の眺めがどう映ったのか、ちょっとその気持ちになって歩いてみたい気がします。

全国六千キロにおよんだと言う律令制の官道は、現在の高速道路ルートとだぶる所が多いようです。土木工法も全国規準に沿う国策道路で、今の高速道路と建設目的も共通するものがあったのでしょう。軽井沢の峠道はどうだったのか。切り通しはあってもトンネルのなかった時代。しかも、噴火する浅間山の影響もあった時代にどのルートを通っていたのか。火砕流や軽石・火山灰の下に埋まっている古代の遺跡を覗いてみたいものです。失われた信濃国風土記、ひょいとどこからか見つからないものでしょうか。
・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・

by maystorm-j | 2014-04-20 05:09 | 遊び
2014年 04月 17日
コブシの花芽はほころび始める /「信濃のかたりべ」新酒発表会
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大雪の後、いつまで続くのかと思われた冬も、さすがに去った感じがします。仕事場の向いに並ぶコブシとオオヤマザクラの花芽の様子です。サクラの方はまで硬く閉じていますが、コブシの花芽はほころび始め、先の方に白い花びらが顔を出しています。

蕾がほころぶという表現は、綿毛に包まれたコブシの花芽にこそふさわしいのではないでしょうか。いかにも衣がほころび、それを脱ぎ捨てて、下から純白の下着? いえいえ、新社員・新入生のまたらしいワイシャツ姿ですね。季節感溢れる風景です。

下界の方々が花見の宴を楽しまれたのは、もう2週間以上前でしょう。その光景をテレビで見せつけられる高冷地軽井沢の花見好きは、週末になるといそいそと下界に下りて行きます。群馬県側ですと、隣町の安中・横川あたりは、標高差が700mぐらいありますので、3週間は早く開花します。その後、長野市、上田市、小諸・佐久と順番にめぐって、いざ地元軽井沢で咲く頃には、花見酒にすっかり飽きてしまっている人もいます。5月の連休に満開ということが多く、いそがしさと、観光客の目があって、花の下で大宴会という光景は見られません。

花見好き、お酒好きの方には最高のお知らせ、佐久市茂田井宿で新酒の発表会があります。「信濃のかたりべ」という酒、私には好みの味で、贈答用にもよく使っています。ベタ甘い酒は論外ですが、淡麗辛口と呼ばれるタイプの、このあたりでは新潟の酒でしょうか、私には水っぽく感じられます。しっかりした味わいのある芳醇なタイプが好みです。

この新酒発表会、なかなか盛りだくさんのお楽しみ企画ですが、静かに飲みながら信濃路の風景を楽しみたい方にも、古くからの街並を残す茂田井宿はお薦めです。ほろ酔い加減で散策すると、桃源郷にタイムスリップした夢を見ることでしょう。
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by maystorm-j | 2014-04-17 06:00 | 自然
2014年 04月 16日
軽井沢に、二つの歴史愛好家の集まり
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この写真、仕事場の近所の石垣についていた、たぶんツメレンゲ?と思われる植物です。マイナス20度の低温にも、この冬の1mの豪雪にも耐えて、じっと春を待っている様子。硬く閉じたロゼット状の葉は、太陽の光と熱を受取りやすい赤色です。タイトルの歴史愛好家の集まりとは何の関係もありませんが、どことなく長い歴史を感じさせる風情があります。時の重みに耐えて、そのうち花ひらくのでしょう。

昨年、以前からの知人が事務局を担当している歴史愛好家の集まりに参加しました。私自身は格段の歴史好きではありませんが、軽井沢の歴史は「道」の歴史と思われるほど、太古から人と物が往来する地です。古い道を訪ねて峠を上り下りする山歩きに参加し、大勢の人とおしゃべりしながらのんびりと歩くのもたまにはいいかな、ぐらいの気持ち。仕事の合間にセカセカと急いで歩く私のいつものスタイルとは違いますが、役場から高齢者と認定された記念にちょっと宗旨替えです。

メンバーの中に何人か、もう一つの歴史愛好会に参加している方々がいて、まったく別の場所でご一緒する事も有り、誘われるままにそちらにも顔を出したとたん、即会員ということになりました。「にわか歴史愛好家」の誕生ですが、すぐに馬脚をあらわすにちがいありません。多少性格の異なる二つの会はお互いに多少の緊張関係を含みながらも、両方に参加するメンバーもけっこういて、月1回数時間の事ですから、のんびりと進んで行く事でしょう。

その一つ、「軽井沢史友会」の集まりが明日4月18日、離山の図書館であります。会長による「追分」のお話を予定しています。13時30分から15時までですが、最初に総会がありますので、会員以外はちょっと遅れて参加してもいいかもしれません。5月には、会長の案内で追分地区を歩く予定です。どちらの会も、平日の昼間の集まりますので、若い方は参加しにくいのですが、「前期高齢者」が「後期高齢者」から昔の話を聞くのもいいでしょう。記録として残せればいいかなと思っています。

追記
陸前高田市に知人からツイッターがあって、やはりツメレンゲでいいらしい。ネットで調べると、いろんな姿の植物。地方や環境による個体差が大きいらしい。苛酷な環境に適応出来るように変化する、フレキシブルに出来ている種なのでしょう。見習うべし。

by maystorm-j | 2014-04-16 05:48 | 遊び
2014年 04月 15日
開くと艶やか・・・春を告げる蝶エルタテハ
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一週間前の事ですが、荻窪「銀花」展の最終日で、車で東京往復。一日作業場を締めたままだったのですが、翌日戸を開くと床に蝶が一頭。蝶の専門家は1頭2頭・・と数えますが、普通の感覚では1匹ですね。じっと翅をたたんでいました。冬眠から醒めたばかりなのでしょう。そっとつかまえて、外の陽が当たるところに出しました。20分ほど、春の光の中で身体を温めていましたが、写真もこれぐらいでいいかなと思う頃に飛び立って行きました。

タテハの仲間はどうも個体差が大きく、季節によっても翅の形や模様が変わります。翅をたたんだ時に、真ん中あたりに小さな白い点がありますが、よく見るとCの字に見えるものと、Lの字に見えるものがあって、それぞれシイタテハとエルタテハという別の種類に分類されています。この写真でははっきりしませんが、開いたときの模様からエルタテハでしょう。蝶本人にとっては何のこっちゃ?という名前ですが、自分で名を名乗れというわけにもいきません。見た目では似通ったものが多いと、時にはこのようなひどくマニアックな命名をされる事があります。

さらに派手な衣装のクジャクチョウとともに、寒冷地でも成虫のまま冬を越し、春の訪れを告げるように現れます。翅をたたんで、落葉の間や木の洞で冬眠していたら、気づかれる事はないだろうと思う見事な保護色。そして、翅を開いた途端にみせる艶やかさ。見事なコントラストです。どうも人間社会では、外面がきらびやかで、中を開くとダーティーというケースが多く見られます。

先月、東京での個展初日、荷物を積んで車で往復したときは、高速の料金が片道2,350円でした。消費税増税直前の物流ラッシュと年度末が重なり、環状8号線はかなりの渋滞。関越道を出てから荻窪まで1時間かかりました。ところが今回は高速料金が片道3,640円だったような気がします。

3%の値上げは覚悟していたのですが、いろいろな割引が削られて50%以上の値上げ。話が違う。3%分だけが福祉に回るなら、残りの値上げ分はどこに行くのだろう。蝶の翅とは逆に、開いてみたら真っ黒け。いつも渋滞の環状8号線も、その日はガラガラ、荻窪まで15分。真夜中以外で、井荻トンネルをノンストップの60?kmで走り抜けたのは初めてです。お出かけも、買いものも、物流もひっそりと息を詰めている感じでした。

by maystorm-j | 2014-04-15 05:50 | 自然
2014年 04月 13日
4月28日(月) 信州宮本塾講演会 「原発事故とアスベスト災害・・」  講演:宮本憲一
「信州沖縄塾」「信州ツキノワグマ研究会」に続いて、私が参加している三つ目の「信州」が「信州宮本塾」です。この春から、信州宮本塾のブログが始まり、多くの方々に活動の案内や報告をご覧いただけるようになりました。上の水色の表記をクリックするか、このブログの右側サイドバーにあります「外部リンク」から移動してください。

毎年数回の講演会の他に、地元メンバーを中心に学習会をほぼ毎月開いています。会員以外の方もどうぞ気楽にお出かけください。また、ご入会いただいた方には、通信や企画の案内が送られます。以下、宮本塾通信の最新版冒頭の部分と4月28日の講演会案内を掲載します。

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by maystorm-j | 2014-04-13 08:23 | 社会