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2013年 03月 23日
「無関心」について
50日間ブログの更新をしませんでした。昨年末から、衆院選敗北の理由を考えてきましたが、選挙戦最後に登場した日本未来の党の結党の背景と経緯には解らない事が多く、なんとなく書きそびれていました。その部分について、反原発の側に立つ言論人や雑誌もほとんど語られておらず、ひじょうに不可解な気がします。今も、その部分について書くだけの材料がありませんので、まだしばらく調べて考えようと思います。

3月10日、私の地元の佐久地方でも集会とデモ(パレード)がありました。昨年の3月11日とほぼ同じ企画でしたが、参加人数は3分の2に減っていました。昨年は組織や政党に所属しない個人的な知り合いが10人程参加し、いろいろ話が出来たのですが、その人達は今年参加していません。人それぞれの都合もあるし考えもあるでしょうから、一概に脱落とか変質とか決めつけることはもちろんできませんが、目の前の現象が何を意味するのかを考える事は必要でしょう。

この2年間、変わらず放射能の危険をアピールして来た若い親の一人が、たえず周囲の無関心を嘆いています。ツイッターで時々やりとりするのですが、私の言葉足らずを感じますので、まとめて書いてみます。みんなで集まって話し合いができればいいのですが、それぞれなかなか時間が取れず、集まる時はどうしても公式な課題やアピールになりがちです。

無関心と見える人々や次第に運動から遠ざかった人々と突っ込んだ話をするのはとても難しいことです。角が立ち、時にはつきあいが壊れる事もあるでしょう。それ以前に、考えを言葉にしてくれる人を見つけるのさえ困難です。「無関心」という捉え方自体にすでに否定的な意味合いがありますので、そのようにくくられた人はいい気持ちがするはずもありません。

むしろ、社会のたくさんある問題のどれに自分が関心を持ち、どれを見過ごしているのかを考えた方が解りやすい気がします。直接のアピールや雑誌などで読んだ「理不尽」の全てに関心を持続し、運動にかかわれるわけはありません。後で、きちんとフォローしてこなかったことを、シマッタと思う事がたくさんあります。

一つの極端な例を挙げます。毎週2回程、町の福祉・保養施設でトレーニングをした後、付属の大浴場に入るのですが、営業目的の施設ではないので利用時間の制限があります。土日は5時で閉館。最近町民になった同年輩の男性が、利用時間の延長を求めてプラカードを作り、ロビーや脱衣場でアピールしています。風呂に入りながらも、他の入浴者によびかけていて、私も一緒に運動しようと誘われました。誰も参加せず、今もその人は「一人デモ」を続けています。

彼は私に向って「学生時代は活動家だったみたいな顔して、どうして今は無関心なんだ」非難しました。その言葉で、私はかえって冷めた目で彼の運動を見ることになりました。彼がプラカードを持つ事は彼なりの表現であって尊重しますが、ペンネームで話かける彼に対し、声をかけられた他の人はほとんどが古くからの住民です。みんな実名で顔をさらして暮らしています。その施設は建設当時から、田舎では良くある利権がらみの問題があったのですが、住民はみんなそれを知っていても、いろいろなしがらみがあって、簡単には口にできません。多くの人が見ている場で、その問題を話しかけられる事は、地元で仕事をし子や孫をを学校に通わせている人にとって、都会に通って仕事をしていたり、リタイアしてやって来た新住民とは違う厳しさがあります。噂がすぐに伝わる田舎暮らしでは、気配りしなければならない事がいろいろとあり、彼には公民館の部屋でも借りて、この問題に関心のある人が集まって考えた方が良いのではと言いました。

彼は、利用時間延長は町民の便宜のためであり、自分の主張は「正義」だと言います。「正義」は人それぞれいくつもあり。一人一人のプライオリティーにそって選択して行動するのだから、自分の正義を押し付けるなと私は反論しました。彼は、町が運営する施設なのだから、町民の便宜拡大をはかるのが当然だと言います。町民アンケートをとって時間延長希望が多数ならそうするべきだと。そうしたいのなら、役場や町議会に働きかけたらと私は勧めました。その一方で、一般の行政は「最大多数の最大幸福」を追究するものかもしれないが、少数者を対象とする福祉行政は必ずしも多数決で決めてよいものかという疑問を言いましたが、多数の利益=正義という思い込みには通じなかったようです。

ここまで、彼の運動に私がかかわらない理由のうち、運動側の問題を述べましたが、それだけでは片面しか見ていない事になります。私の側の問題を見なければなりません。

リタイアする事が許されない私の仕事では、たえず時間が足りない状態が続きます。仕事時間のほかに、仕事を続けるために健康と体力を維持するための時間も必要になります。建設の経緯に不明瞭さがあって足を踏み入れることさえいやだったその施設に昨年から通い始めたのも、糖尿病の可能性を医師に指摘され、薬を飲むことになったからです。短時間で効率よく体調を改善するために、楽しくもないトレーニングを始めて、シャツが絞れる程の汗をかいて付属の温泉に入ります。確かに、検査数値は改善されています。

限られた時間で、限られた目的の利用にとって、あまり煩わしい問題に関わりたくないという事があります。トレーニングや風呂で一緒になる人達と、軽い話をしている方が楽です。一人デモの人は、遅い時間になると民間の高額な温泉にも行くらしく、そんな余裕がない私が彼につきあう義理はなかろうというひがみもあります。土・日は5時までに筋トレと風呂をすませて、急ぎ仕事に戻ります。

時間を延長してそのコスト増に見合った収入増がなければ、税金で補填する事になります。時間が短いことの不便さが、どれほど切実なものか、私にとってはかなり低位な問題です。現在の利用者のほとんどにとっても同様でしょう。しかし、そうではない人がいるかもしれない、という想像力は必要かなとも思います。週末忙しい観光地ですから、7時に仕事を終えて温泉に入りたいが、民間では高くて行けない人がいる可能性はあります。そんな立場の人がプラカードを持っていたら、という想像。一人デモの人の有りようや論点に納得がいかないというのは、問題の本質とは違うのかもしれません。

同時に、もし私にとってそれが切実な問題だったら、きっと彼とは違う表現の仕方をするでしょう。保養や健康のために来ている場に、気配りなく難しい問題を話しかけるのはためらうし、恥ずかしいという保身意識も出ます。既に35年地域社会で暮らして来た知恵とずるさでしょう。それさえはねのけるほど切実な問題だったら・・・? こんな想像を掻立てるほど、一人の切実さが人間の共通する欲求、生理的・本能的なレベルにまで深化しているのか、そんな事を考えます。

長くなりましたので、その問題は次回に。

by maystorm-j | 2013-03-23 05:57 | 社会