2016年 09月 16日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その11
気象庁のサイトで天気図を見ると、例年通りの秋雨前線が列島南岸に張り付いていますが、周囲の気圧配置は複雑です。梅雨時から見慣れない気圧配置が続くと思っていました。小笠原気団(太平洋高気圧)が発達しないまま、梅雨前線が消えて夏に。台風は夏型のコースをとらず迷走。どうも、ジェット気流(偏西風)のコースが変化しているようです。先日、気象庁はラニーニャの発生を発表しました。二酸化炭素の増加につれて、気温はまっすぐ高くなり、それにともなって異常気象が頻発すると刷り込まれてしまった人々には、日々変化する気象現象を見ながら、その背景を探るという意識は起きないようです。温暖化のせいだと決めつけて、思考は停止。同調軸が設定されると、一つ一つ疑って考えるのは面倒なのか、軸から外れる事が不安なのか、子どもの頃から「みんなと同じ」です。まれに赤やピンクのランドセルを背負った男の子がいると、「オッ!やるじゃん」と言いたくなります。

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昨年、安保法制が国会を通った直後に、共産党から野党共闘と国民連合政府が提案されました。国会内外における反対運動の敗北。国民の過半数が反対や危惧していたにもかかわらず、なぜ運動が負けたのか。その反省、検証から新しい運動の可能性を探る思考と議論を経ずに、いきなりその日のうちにトップダウンで次の方針が下される不快感。内容以前にその事だけで不愉快。さらに、市民運動が議論を経ないまま、拍手喝采でその結集軸に同調していく。これのどこが民主主義なのだろうか。ある会合で今こそ統一と団結が必要なんだと説く論客に対して、議論抜きでいきなり連合政府まで提起されて市民が同調する流れに懸念を述べて、「統一と団結」ではなく「多様と連帯」を探るべきではないかと述べました。それに対して共産党の提案に賛成する側から連合政府の意義や必要性が述べられるかと思ったのですが、「そんなの一緒じゃないか」と言う答。ああ、そうなんだ。「統一と団結」「多様と連帯」は一緒なのか。いくつかの市民運動に参加していますが、このことに違和感を述べる仲間に出会わないのは、みんなもそうなんだと納得。

「統一と団結」という呼びかけは、みんな同じ仲間じゃないか、同じ人民、同じプロレタリアート、同じ99%じゃないかという枠内で成立します。子どもの頃から、何か特別な属性ゆえではないけれど、たえず自分がマイノリティーだという意識を持ち続けてきた私には、どうしても馴染めない仲間意識です。その意識に支えられて、プリントされた同じプラカードを一斉に掲げるのでしょう。誰に向って? 同じ仲間にむけて、自分も同じ考えである事を示すため? デモで表現すべきは、外に向って語る言葉ではないのか? 街頭で語るべきは、自分と異なる考えの人達に向って、多様な疑問や批判に応える言葉ではないのか。シングル・イッシューに運動を集約する動きは、安保法制以前から、首相官邸前の首都圏反原連の運動や、その周囲の反放射能運動に強く見られました。異論を許さない圧力は、集会やデモの現場と同時にネットでのバッシングとして表れます。討論会や学習会などの市民運動では、それが異論に対する無視・無関心という反応となります。これまでたびたび同調圧力について書いてきました。しかし、圧力が生じる前に「同調可能」な範囲に問題が設定されている事がありそうです。アベノミクスに対抗する経済政策を積極的に提案すれば、論議が必要となり、賛否が分かれます。仲間内で賛否が分かれるような課題は、最初から取り上げない方が「団結」が保たれるでしょう。「アベの政治をゆるさない」という、反対する事にのみ課題を統一すれば、団結しやすいことになります。この内向きの動機と展開は、対案が欲しい、異なる生き方を見出したいと願う運動外部の人からはすぐに失望されるでしょう。

今後、自衛隊の派遣や憲法改正問題など、一人一人の考えを明確に表さなければならない事が増えるでしょう。9条については、自衛戦争、自衛の軍備を認めるかどうか、きちんと議論する事なく護憲派の間でも70年間、ずるずると「解釈改憲」が行われてきました。歴史的には日本にもあったHoly war (聖戦)を主張する人は現在ほとんどいないでしょうが、Just war (正戦)については護憲派の内部で大きな意見の相違があります。この問題については、西欧社会でも中東でも過去2,000年、議論されてきた歴史があります。国対国の関係にとどまらず、国対個人、個人対個人の関係においても、武力行使、自衛、報復の権利について、深く考えられてきました。

自分がマイナーな人間だと感じるのは、何か一つの属性、一つの領域においてではなく、健康、感性、精神の発達史、社会的位置、職業・・・様々な領域において異なる指向が併存します。一つに統一された自分のアイデンティティーが、周囲に普遍的なアイデンティティーの集合との間で齟齬をきたすというのではなく、自分自身の中に複数のアイデンティティーが存在し、外部の様々な集団に同調しつつ参加する事を妨げているようです。帰属意識が薄弱、あるいはアイデンティティーのない人間という方が正確かもしれません。皆さんはどうでしょうか?統合された一つのアイデンティティーに沿って感じ、表現し、行動しているのでしょうか。己の中で複数のアイデンティティーが「本当にそうなの?」とささやきかけてきませんか。ためらいのない正義、後ろめたさのない良心に従って発言と行動をしているのでしょうか。

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講演会や学習会に参加すると、話している人にむかって多くの聴衆が頷いたり、相づちの声を漏らしたりする光景をよく見ます。そこで語られている内容が本当にそうなのか、パソコンやタブレット、スマホでしらべたり、参考書籍を開いている事はほとんどありません。その証拠に、大きな鞄を持ち歩るく習慣もなくなったようです。話を聞いていると、次々疑問や不整合な事象が浮かんで来て、大急ぎでiPadや持ち込んだ本で調べるのですが、周囲を見回すとそんな人は他にいません。信仰集団の集会に紛れ込んだ気分。独りあくせくしながら、居心地の悪さを噛みしめて帰り、ああまたかと。9.11の後はまだ、異なる視座からの疑問が提出されて議論がありましたが、3.11の後は、決まった反応をそれぞれがなぞっていくような論述の進行と聴衆の反応、レールの上を脇目もふらず、です。その結果、どうもそこは自分の居場所ではない事を確認するために参加して帰ることになります。

なんだか、愚痴ばかり書き連ねたようです。今回は「経済の土俵」にのぼる前に土俵の角で向こうずねをしたたかに打って転けたというところでしょうか。次回はもう少し具体的な考察を心がけます。



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by maystorm-j | 2016-09-16 08:07 | Comments(0)


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