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2016年 09月 12日
ぴんころ地蔵をもらってしまった

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お盆のころですが、会った事のない人から人を介して、ぴんころ地蔵をもらってしまいました。信州、とりわけ佐久地方の人なら当たり前に知っているのですが、たぶん全国版で知られていると言うほどではないでしょう。PPK運動というとますます???でしょうが、ぴんぴんころり、元気に長生きして、寝込んだり認知症にならずに、ころりと大往生を遂げたいものだと言う願望に発するものです。そのために、齢とってからも運動したり、菜園で汗を流したり、知的活動や健康診断。積極的に「老いに向かい合う」姿勢はいいものでしょう。退職金もなく、まともな年金もない私のような職業では、かなう事なら最後まで元気に働いていたいと、切実な思いもあります。

それにしても目の前のぴんころ地蔵を見ていると、見ず知らずの他人から最後まで元気に働けと言われたようで、なんとおせっかいなという気もします。もし現実に働けない状態になったら・・・いかに本人がぴんころ願望を持っていても、先の事は判りません。「酒が飲めなくなったら、生きていてもしかたない」と元気なうちは豪語していた人も、いざ医者に酒を止められたからといって自らあっちへ行ってしまったという話は聞きません。せいぜい人目を盗んでちょっとだけ・・・が関の山。元気な時に尊厳死を望んだ人が、その後もずっと気持ちが変わらないという保証はありません。まして、本人の願望の他に周囲の人達の願いや思惑もあります。しょせん、ままならぬ命と思い定めるのが自然ではないでしょうか。

ぴんころ願望を裏返すとどこか、「生きている価値のない命」が存在するという考えを認めることになるかもしれません。意識もなく、まわりに負担ばかりをかける命なら、早く消えた方が良いということにつながらないでしょうか。死に至る経緯は、突然一気に進む事もあれば、山や谷があったり、少しずつグラデュエーションを描いていくこともあります。もちろんどこから命に価値がなくなるなんて、線引きできるはずはないでしょう。死に近づいていくなかで、少しでもQOLの改善をはかったり、痛みを減らしたりする緩和ケアの充実を否定する事にもなりかねません。一見、人間なら当然の願いと思われることが、ちょっと視座を変えると、命に対する畏敬の念を損なう精神風土を醸成する可能性が見えてきます。現在ぴんぴんな人はそのままころりと逝きたいと考えるかもしれませんが、今ぴんぴんではない人がどう考え、どう生きているか、周りの人がどう思い、かかわっているか。だいじな視点をなくしてしまいそうです。


個人として自分の「生き方」を考えるということと、「死に方」を想定する事の違い。どちらも、周囲の人々と調整しながら実現に努力することでしょうが、後者は努力ではカバーできない不確定要素が前者に較べてはるかに大きくなります。だからこそ、ぴんころ「願望」であって、お地蔵さんに願掛けしたくなります。しかし個人の秘めやかな願いを、他人に大きな声で広言するとなると、個人の願いを集積して社会の精神に築かれてしまいます。その時に起きる共同体が発する精神的圧力、さらにそれが社会のシステムになり、個人を縛り、時には抹殺する力になりかねません。最初に引用した佐久市野沢商店街のサイトを見ていると、街おこし運動、金になる運動という側面にも支えられた、空恐ろしさが伝わってきます。



by maystorm-j | 2016-09-12 06:09 | 暮らし


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