2016年 09月 01日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その9
前の記事で、「消費する」ことを人間の本質とすると、社会はどう見えるだろうかを書きました。華やかな広告宣伝が溢れているため、生産される消費材がいかにも多様で新しい技術・機能を更新しているように見えます。しかしその中で、暮しを画期的に変えた消費材は、洗濯機、冷蔵庫、電気釜、クーラー、車・・・昔は「三種の神器」と呼ばれた、10年に一度ぐらい登場するものだったような気がします。それらは多くの「消費するヒト」が普遍的に欲しがるものです。
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暮しのこまごまとした情景でヒトは、それぞれ個性的で多様な消費を必要とします。年齢によっても、社会内の役割によっても、住んでいる環境によっても消費欲求は異なります。もちろん、病人や障がい者にはそれぞれ必要とするものが異なります。さらにヒトにはそれぞれ好みがあり、それも日々変わるでしょう。消費行動が多様で個性的で、しかも変化する事が生産を変化させているとも言えるでしょう。

そのように考えると、生産の大きな流れは本来、「消費するヒト」のオーダーに沿って方向づけられて来たことになります。新自由主義的生産は、生産者の都合で作られる大量消費の押しつけですので、「消費するヒト」の要求を満たすものとならないのは当然です。生産が「消費するヒト」を支配してしまいます。宣伝によって幻影を見せられ、使用すればじきに幻滅を感じ、その頃には壊れたり古くなったりで廃棄され、次の幻影に向うようにしむけられた消費です。

私は一度も組織に属する事なく、消費者と向かい合いながら一人でもの造りを生業にして来ました。製品価格は量産品の10〜100倍。買って下さる人の期待値に充分応えてきたかどうか、とても気になります。オーダーされる人の希望は、用途・機能、大きさなどの具体性はもちろん、形の印象や好みなど心理的な部分もあります。どっしりと重量感があるものが要求される反面、年齢とともに弱る筋力に合わせて軽く、持ち易くという要求も多く出されます。オーダーメイドなら当然の事です。展示会のために造りためるものも、時間と能力の許す限り多様にと心がけます。世の中には何か勘違いして「俺様の造るものに文句があるならあっち行け」みたいに威張る職人がときどきいます。修理できない「手作り品」も多く見られます。

規格化された大量生産大量消費に対抗する生産として、カスタムメイド、テーラーメイドなどともよばれる消費側が主導する生産が見直されても良いのではないでしょうか。子どもの頃、下駄屋や服屋は消費者に合わせて最後の仕上げを調整したり、修理や仕立て直しをやっていました。魚屋も肉屋も希望に応じてその
場で捌いたり切ったりがあたりまえでした。量産品でも、特にプロむけの道具に今でも多く見られますが、使用者自身あるいは販売者が調整を可能にする造りの製品があります。マイコンが作動を制御する製品は、人による調整が出来ないものが多いようです。

オーダーメイド生産において、すべての人に一定の消費する権利を与えるなら、消費するヒトが多様で個性的である程、生産は多様で個性的になる可能性があります。高齢者、病人や障がい者は新しい製品を産み出す原動力となります。むしろすべての人がマイノリティーであるという前提に立つことで、消費主導の生産へと再転換するのではないでしょうか。
(つづく)

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by maystorm-j | 2016-09-01 09:06 | 社会 | Comments(0)


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