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2015年 10月 25日
安保法制反対運動を振り返って/改憲の動きをどう見るか
安保法制反対運動を振り返って/改憲の動きをどう見るか_d0164519_15445334.jpg安保法制が国会で成立したことにされてから1ヶ月が経ちました。その間に、共産党からの「選挙協力と連合政府」提案を巡って議論や駆け引きが行われています。その提案があまりにも素早く唐突だったために、集団自衛権の閣議容認から安保法制成立にいたるまでの過程、反対運動の検証と総括が丁寧に語られることなく、次は参院選というムードが広がっています。

8月末から9月にかけて、軽井沢でも珍しく集会とデモが3度行われ、町議会でも決議がなされました。その中心となった9条の会の例会が2週間ほど前にあり、私も初めて参加しました。参加者は十数人で、集会の最大参加人数150人と較べると、いささか寂しい感じです。このような集まりに共通する話題の構成ですが、権力側の「悪」と自分たちの「正」を、参加者がそれぞれ様々な具体性をとおして語り合います。そこでお互いに確認し合うことがらに特段の異議はないのですが、はたしてそれだけでいいのか。5年前も10年前も、さらにほとんどが60歳以上のメンバーがまだ若い青年だった半世紀前も、ずっと同じ文脈の確認がなされてきたのではないでしょうか。正しい事を確認し合うだけでは、なぜ正しい事を実現できなかったのか、その仕組みと反省、未来の展望は生まれません。今回の運動では特に若い世代を含む広範な盛り上がりがあった、国民の過半数が反対していたのに政権が無理矢理押し通したという意見が多く語られました。それならなぜ国会終了後に政権の支持率が上がっているのかを問いかけましたが、その答えどころか支持率上昇という事実にさえ気づかない人が多かったようです。

話の中で、「ガンジーやキング牧師の無抵抗主義」についての発言があり、他の参加者からは何も反応がありません。あれっ?という気がして、無抵抗ではなく「非暴力不服従」ではないか発言してみました。彼らは徹底して抵抗し抜いたのではないかと振ってみましたが、「非暴力不服従」という言葉さえ、多くの人は初めて聞いたという印象でした。私も、ガンジーやキングに詳しいわけではありませんので、知識のなさをどうこう言うつもりはありません。問題は「9条の会」の運動で、憲法前文と9条の意味する「平和主義」「不戦」の本質的論議を避けてきたから半世紀も前の「無抵抗主義」という言葉が今も生きているのではないか。平和憲法と9条があったから70年間戦争をしないで来られたという過去の現象肯定しか語られなかったのではないかということです。

安保法制国会審議の前半、反対運動は憲法学者の違憲論で盛り上がりました。そのきっかけになったのは、改憲側にもともと位置する憲法学者達による集団自衛権違憲論でした。幅広い反対運動を作る上で、彼らと連帯することにまったく異議はありませんが、それに狂躁するあまり、護憲側のしっかりした論理が構築されなかったと思います。風呂屋政談、町で一般の人々や若者と話すと、戦争やテロの脅威に対して国民を守れないなら憲法を変えればいいじゃないかという反応が返ってきます。「違憲だから安保法制はダメ」というだけでは説得力を持ちません。これまで9条改憲を狙ってきた勢力への批判をあっても、9条そのものの論議、あるいは70年のあいだ直接戦争に参加しないでこられた歴史の検証、9条を堅持しながら何が出来るのか、未来のシミュレーションなど、考えなければいけないことをたくさん棚上げしてきたのではないでしょうか。

SEALDsの集会に参加する機会はありませんでしたが、ネット動画でその主張はかなり知ることができました。中心的な男子学生達は、集まる人が増えるにつれて、かえって言葉が貧弱になってきたような気がします。「こんなに多くの若者が、強制されることなくそれぞれの思いであつまったこのデモこそが民主主義だ」という点に集約されて行ったと思います。確かに、自由に集まり自由に表現できることは民主主義にとって不可欠の条件でしょう。その一方で、多数の人の結集が運動の正当性を証明するという考え方や、「自分たちは先に目覚め、それに刺激されて何も言わなかった同世代が動き出した」という主張に、しっくり来ない感覚、むしろいくぶん怖ささえ感じます。

対称的に若い女性達は思い思いに、安保法制によって静かで平和な今の生活が壊れて行く怖さ、戦争で殺し殺される恐怖、健全な保守の感覚をストレートに表現していました。その言葉の具体性から、聞く人の心を打つものがあったことは確かですが、自己の肯定、現状の肯定からは、その現状が何によって支えられているのか、沖縄やアジアから見た日本の戦争と戦後の評価がすっぽり抜け落ちてはいないでしょうか。たぶん、沖縄やアジアについて、その戦争被害は知識として知っているでしょう。しかし、「30年後にも戦後100年を祝いたい」という言葉には、どれだけ「加害の歴史」が深い意識となっているのでしょうか。

もちろん、私が彼らの齢だった頃、やはり入り口に立ってとまどい、明確な方向が見えていたわけではありません。いろいろ変わりながら、そして今もそうかもしれません。彼らもこれからどんどん変わっていくでしょう。むしろ、いい齢してたくさんの経験を積んでいるはずの世代が、若者達と真剣に議論をすることなく、ただもてはやしてしまったことに問題があるでしょう。言葉がとても貧困でした。民主主義は人の数ではない。一定の意見が多数派を占めることを目指すものではないと私は考えます。多様な意見、多様な個人や集団の間で、どれだけ豊かな言葉が交わされ、コミュニケーションが成立するかが民主主義そのものだと考えます。

安保法制反対運動を振り返って/改憲の動きをどう見るか_d0164519_15494481.jpg来年の参院選で、安倍政権は明文改憲の是非を問うと言っています。安保法制が違憲かどうかよりも、さらに一歩進んだ地点で争うわけです。そこを争点とすると言う以上は、その前に明文改憲の必要性を国民が感じるような状況が作り出される可能性を考えておくことも必要です。既に安保法制反対運動をたたかった人々の間から、「新9条改憲論」が語られています。政党間で異なる政策を「凍結」する「連合政府」が、はたして幅広い連帯の結集軸になるのでしょうか。暴走する安倍政権によって作られる土俵は、1ヶ月前よりもっと先に進んでいることでしょう。憲法そのものを棚から降ろしてまな板にのせて議論を深めることのないままで、自民党改憲案阻止の大きな連帯が組めるのでしょうか。

南シナ海での対中国緊張関係は、オーストラリアの首相交替やカナダの政権交替でいくらか緩和され、米海軍派遣の規模縮小も見られます。その一方で安倍首相はフィリピンとの軍事同盟を強化する方向で動いています。米軍産複合体と安倍政権がフィリピンを介して謀略的衝突場面をつくる可能性はまだ残っていると考えます。台湾で政権交替が起きた後はどうなるでしょうか。米国が第2列島線まで撤退しようとする動きに対して、日本を含む周辺諸国間で綱引きがすでに起きているとも見えます。中東ではマケインやネタニアフ等の意図とロシア、イランが正面からぶつかる状況で、どう動くのか眼が離せない状況が続くでしょう。日本国民の平和憲法感、9条の評価は、日本がこれからかかわる軍事動向によって大きく変化する可能性があります。今回の安保法制強行によって、国民意識は改憲反対に傾いたという評論が見られましたが、安倍政権の支持率の高さを見ても、それほど楽観できる状態とは思えません。




by maystorm-j | 2015-10-25 16:12 | 社会


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