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2015年 02月 21日
「アレクサンダー・クロフト・ショウと福沢諭吉の関係から見る19世紀後半の日本」 その2
前の記事の続きです。前掲の年譜をたどりながら話を進めたいと思います。

アレクサンダー・クロフト・ショウが生まれたのは維新の22年前。1846年カナダのトロントで生まれましたが、当時カナダはまだ独立する前で、イギリスの植民地カナダと言うべきでしょう。父方は英国軍人の家系で、父親は連隊長だったと言われています。トロントのカレッジを出て、イギリス国教会の司祭になります。カナダが自治領になるのが1867年で、その数年後にはイギリスに渡り、国教会が中国・日本に派遣する宣教師に選ばれています。

国教会にはカソリックに近いハイチャーチとプロテスタントに近いローチャーチがあり、ショウはハイチャーチの海外宣教組織SPGから派遣されることになりました。SPGはケンブリッジかオックスフォードの出身者を派遣したかったようで、経歴から見るとショウは抜擢と言えるでしょう。SPGには選抜面接の記録はありますが、履歴は残っていないそうです。ローチャーチ系の宣教組織CMSはM2/1869年にまだ禁制下にあった長崎にエンソーという宣教師を派遣し、布教を行っていて、その報告はイギリスで読まれていたようです。SPGがライトとショウを派遣するのは、キリシタン禁制の高札が撤去された直後です。

ショウはM6/1873年にライトと共に来日し、英外務大臣から公使館付き牧師という重要な公職に任命されます。来日後の5ヶ月間は他の宣教師とともに、大松寺に合宿し日本語を習得します。その時期から福沢諭吉の子どもが英語を習いに訪れ、直後に福沢は自宅横に洋館を新築し、ショウを住まわせます。M7/1874年5月には、福沢はショウを3年間雇い入れると言う届けを東京府に提出しています。二つの家の間には橋がかけられて、行き来出来たと言われています。その後、福沢が死ぬまで27年間の親密な交流が続きます。ショウには来日の前後から、宣教師としては異例のことが続いていたのではないでしょうか。

後で述べますが、福沢という人間は宗教をまったく信仰していません。明治の初めから10年代前半までは、キリスト教を排撃しています。M17/1884年に宗教を容認しますが、そのスタンスは、庶民(百姓・車夫の類い)は勉強させずに宗教道徳を押し付けて、反抗しないようにと言うものです。内村鑑三は「福沢は宗教を利用するだけの、宗教の大敵」と呼んでいます。宣教師として派遣されたショウと宗教の大敵福沢の生涯にわたる親密さは、どこから来るのでしょうか。処遇の異例さと同時に、精神的な意味でもその関係には理解しがたいものがあります。

その後、条約改正運動で連携をとるなどショウは政治的な活動を行いますが、派遣された翌年には既に、SPG宛の報告書に条約改正問題が書かれていると、白井尭子氏は報告しています。前の記事で、ショウが日記や回顧録・自叙伝などを残していないのではないかと書きました。しかし、ショウは筆が立たないわけではなく、白井氏によると、膨大な報告がマメにSPG宛に送られていたそうです。その中には福沢による庇護について、多くの記述があるようです。一方、それほど親密な関係でありながら、福沢の文章にショウが登場することはひじょうに稀だそうです。福沢はたくさんの本を書き、新聞を自ら発行し、社説や漫談に筆をふるっています。二人の関係には、なにかひどくバランスの悪い印象があります。

M8/1875年にショウは英国人女性と結婚しますが、その際にSPGは難色を示し、福沢が結婚の援助をしています。M10/1877年には、芝に新居を建築していますが、その時も福沢と公使パークスの助力を受けています。

次回はショウが来日する前後の、福沢について書きたいと思います。



by maystorm-j | 2015-02-21 18:39 | 社会


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