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2015年 02月 19日
「アレクサンダー・クロフト・ショウと福沢諭吉の関係から見る19世紀後半の日本」 その1

2月19日、軽井沢の史友会(歴史愛好会)で1時間余話した資料です。拡大しないと見えないと思いますが、中心に年代、左にショウ、右に福沢の年譜を記し、左右に軽井沢と日本、朝鮮・中国の主な出来事を書いてみました。 
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はじめに、なぜアレクサンダー・クロフト・ショウに注目したのかと言いますと、私が36年間住んできました軽井沢では、ショウは軽井沢の救世主であり、言わば神格化された存在です。明治維新後、中山道の通行が減り、寂れていく軽井沢に別荘文化を持ち込み、現在の繁栄の礎を築いた大恩人という扱いです。

歴史の中で偶像化された人物の実体を探って行くと、意外な面が見えてくるということはよくあります。本人の意図とは別に、後世の人の都合で偶像が作られることはよくあることです。私が子供の頃、乃木大将はすばらしい軍人とされていましたが、今では日露戦争で過大な犠牲をだした、むしろ無能な軍人と言う見方が大勢です。

では、ショウはどんな人物だったのでしょうか。ショウを誉め讃える文章は軽井沢には無数にありますが、ショウ本人が書いたものや、発言を克明に記録したものなどが見つかりません。当時に限らず、異郷の地に赴き、目覚ましい仕事をした人は、日記や回顧録、自叙伝などを残しています。異なる価値観や法体系の中で仕事する上で、後々自分の正当性を証明したり、嫌疑をかけられた際の申し開きのためや、故国に帰ってから出版する目的など、動機は様々でしょう。エキサイティングな体験を、一時的にではなく長期間経験するのですから、記録しておきたいと思うのは自然です。

ところが、軽井沢ではショウがいつどこに来たとか、どこに泊った、どこに別荘を建てたなどの研究は盛んですが、宣教師にもかかわらずどんな言葉を伝えたか、どんな考えだったか、どんな文章を残したのかなどの、言わば「ソフト」面の記述が見当たりません。偶像の表面だけを見せられている気分です。30歳で軽井沢に移り住んだ当初から、なんだか変だと感じてはいました。

明治10年に天皇の巡幸があり、中山道の碓氷峠越えの山道最後の大きな出来事です。その後、軽井沢は衰退の一途をたどり始めていたのでしょうか。下の年譜の縦2列目、軽井沢の様子を見ていただきたいのですが、明治6年1873年には富岡製糸工場へ信州から多くの女工が軽井沢を通って行き来しています。翌1874年には既に鉄道敷設の調査が始まります。ショウ以前にも多くの外国人研究者が、生物や火山の調査に訪れています。殖産興業の波は軽井沢にも伝わり、実業家による大規模な土地の購入と植林や大規模農業が試みられ、国の開拓計画や陸軍の保養所などもつくられています。交通も、碓氷新国道が出来、直江津と高崎の両方から軽井沢に向けて鉄道が作られて行きます。M13/1880年、追分宿には人力車が70台、軽井沢宿(旧軽井沢)は7台という記録を見ると、寂れたのは三宿(軽井沢・沓掛・追分)のうちの軽井沢宿だけだったと考えられます。ショウが軽井沢を訪れた1885年頃は、馬車、鉄道馬車、アプト式鉄道へと、軽井沢がめまぐるしく変化して行く新しい時代だったと見るべきでしょう。その背景を見るだけでも、「軽井沢の救世主」という偶像は色あせてきます。

(長くなりますので、続きは次回へ)
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by maystorm-j | 2015-02-19 21:22 | 社会


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