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2014年 07月 25日
多数者とのかかわり
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写真は10日ほど前、雨上がりの夕日。浅間山の西斜面にかかる雲の様子です。真っ赤な夕焼け空を「とんびがくるりと輪を描いた、ホーイのホイ」というのどかな感じではありませんが、とんびが鳴いて、しかも雨上がりで明るくなったせいか、カッコウも鳴いていました。

そのあと8日間、仕事で東京のデパートに通いましたが、そこは私が育った町の近くで、今もそこに住む弟と妹の家族に会ってきました。兄弟3人、姪甥みんな同じ小学校の出身で、姪の子ども二人も現役で同じ小学校に通っています。私が入った頃は戦後10年、周囲は半分が畑で校舎も木造2階建て。一教室に60人あまりが詰め込まれていたような記憶があります。私には子どもの頃の記憶が乏しいことに、大人になってから気づきます。英単語や歴史の年代が覚えられないことから、記憶力が弱いタイプなのだと高校時代は思っていましたが、中年になる頃からどうもそうではないらしいと感じています。

小学校の校舎や通学路の風景などは、かなり鮮明に覚えているのですが、学友達の記憶が薄い。友達に限らず、先生や近所の大人たちの記憶も乏しく、懐かしい思い出があまりないのです。きっと、人を見ていなかった、人ときちんとつきあってこなかったのです。今も、人の気持ちを汲み取る事やその場の空気を読むことが出来ません。感じ取れないので言葉で聞く事もありますが、聞かれた方は、なんでそんな事をという顔をします。20代の前半に一度だけ小学校の同窓会に行った事があります。ほんの10年ほど前の記憶がほとんどなく、話の輪に入れなかったことから、その後は一度も行っていません。ちょっと、怖い気がします。

親の事情でその小学校に転校したのが2年生の途中。言葉や服装が少し変で、級友達にすぐにはとけ込めなかったようです。服装はじきに同化できますが、言葉や考え方はなかなか同調できず、始めは目立たなくしていても、抑え続けることが出来なくなったのでしょう。高学年になるにつれて、理屈っぽい嫌みな子どもになったようです。情に対する感受性が乏しい分、論理的で議論には長けていて、子どもの事ですから稚拙ではありますが、学級会の話し合いや壁新聞などで、他を寄せ付けない主張を展開していました。まわりからは、「威張っている」と思われたようです。体格も喧嘩も中ぐらいで、暴力的に威張る事はありませんでしたが、あるいは「言葉の暴力」と受取られたのかもしれません。

ほとんど学校を休む事はなかったのですが、一日だけ風邪かなにかで休んだ事がありました。翌日登校すると、級友から前日の学級会では私の事が話し合われたと聞かされました。クラス内は、私からの抑圧に耐えかねたということのようでした。話し合って何か処分が決まったということではありませんし、どんな内容だったのかも聞きませんでしたが、言いようのないショックを感じました。親と私、先生と私、友達の誰それと私という個と個の関係の他に、私の外にある多数者の社会と私という関係に気づかされた最初の出来事だったように思います。

自分の存在が「他のみんな」にとって、ひじょうに嫌なものであるという事が理解できました。他のみんながまとまって直接私に何か言うことなく、欠席裁判が行われる事も知りました。一人一人はそれまでも私に何か言っていたのかもしれません。私が耳をかさなかったのか、あるいはその都度私に論破されていたのかもしれません。「合法的」でありながら、耐え難く嫌な存在だったと思われます。弁明の機会がないまま、自分に関する事が多数者によって左右される事を知りました。

当時、学校の先生達は「勤評反対(勤務評定)闘争」に取り組んでいたようで、子供達も何の事か判らないまま、休み時間に「勤評反対!」「安保反対!」のかけ声で「押しくらまんじゅう」という、ただただ体が温まる遊びをしていました。本人の弁明が許されない状況で評定されることについて、先生はどう思っていたのか、もちろん子どもがそんな事を考えたわけではありません。多数者としてスクラムを組む安心感、連帯感、同調感。この体験から同調主義に乗れない気質になったのか、もともとそんな性格なのかはわかりませんが、今も大勢の中では嫌みな存在のようです。なんだ、そんなことしか反省していないのかと言われそうですが、中学・高校の6年間、無欠席無遅刻無早退の皆勤をとおしました。
(続く予定?)

by maystorm-j | 2014-07-25 05:33 | 社会


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