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2014年 06月 22日
(続)多津衛民芸館二人展とトークセッション
(続)多津衛民芸館二人展とトークセッション_d0164519_2054981.jpg昨日の記事の続きです。

ぎりぎり暮らせる限界の価格をつけたところが、その値段がホームセンターの鍋の100倍になるとしたら、お客様にどう「申し開き」すればいいのでしょうか。機能性の高さ、修理可能で長く使える、台所だけではなく食卓にも出せる・・・いくつかの優れた点を語ってもなかなか100倍の価格差を埋められるとも思えません。

展示会場では、私はけっして語りが上手なわけではありませんし、もともと営業などの人付き合いが下手なので、引き蘢ってもの作りをしているようなところがあります。口先三寸で売りつける才覚などありません。しかし、買って行かれるお客様を見ていると、どこか騙されているんじゃないかと、自分と相手の関係を越えて感じることがあります。どうか、後で後悔しないでほしい、後でしまったと思うぐらいなら今のうちにやめて・・・なんて口に出したら商売になりませんが、それでもどこか心の片隅では、自分を向こう側に置いてみて考えることがあります。

何度か絵を買うことがありました。と言っても、無名の人の安い絵です。安いというその値段が、実は自分が作る鍋とほぼ同じ価格帯です。5万円が絵では安く、鍋ではべらぼう高いと感じるのはなぜでしょう。この絵を買うと、2〜3日分働いた収入が飛んでしまうと思いながら、それでも安いと言うのはなぜか。働かないで儲ける事を自分に禁じているので、株や投機に手を出した事はありません。今その絵が安くても10年後には高くなっているかもしれない、なんて気持ちで買うわけではけっしてけっしてありません。借家で仕事をしているので、自分の豪邸の壁を飾って来客に見せつけようなんて事もありません。なんとなくその絵に幻惑されて、持ちたいというおかしな気分ですね。時々眺めてはニタニタするかもしれません。幻の世界で遊ぶといったところです。

そう考えると、私はその絵に騙される事を良しとしていると言えます。騙されていっとき気分よく過ごす、あるいは鋭く切り込んでくる問題提起にエキサイトする。絵を見たからと言って周囲の状況が具体的に変わるわけではなく、自分が幻の世界で遊ぼうとしているのではないか。映像でも写真でも役者や芸人の演技でも、それを受け取る自分は、騙される事を望んでいるのではないでしょうか。絵空事という言い方がありますが、その幻影に触発されて、現実の世界では騙されないように、鋭く本質を見抜く力を持ちたいと、秘かに願っているのかもしれません。

幻を作り出す力が「芸」だと考えれば、大雑把に言ってホームセンターで売っている鍋の10倍の価格は技術の力が生む機能性によるもので、さらにその10倍の価格は芸の力が生む幻への期待なのではないでしょうか。その根底には、栄養補給という事以上のものを食と食事に期待する気持ちがあると思います。

会場で買っていかれるお客様には二つのタイプがあり、瞬間的に見抜いてきめる方と、全てを見比べて説明を聞いて熟慮する方とがいます。どちらの心の内もわかりません。自分はどちらかと考えると、仕事の電動工具やカメラやパソコン関係・電気器具を選ぶときはかなりぐずぐず考えます。カタログを隅々まで読んで、ああでもないこうでもないと考えている時間に、小さな鍋の一つでも作って売れば、もう少し気楽に買えるだろうにと、後から馬鹿だなあと反省します。仕事の道具でもハンマーやヤスリや、ヤットコなど手動のものは、その形を見ただけで瞬時に決めます。本やそうですが、たんに安いから簡単に決められるという事ばかりではなさそうです。

鍋は道具です。買われた方は台所に立つと、鍋を買った消費者から料理を作る生産者に変身します。食事作りという仕事は、食材を美味しくするだけではなく、食べる人とのマッチング、タイミングや雰囲気などかなり総合的な作業です。自分一人の食事であれ、家族や友人達とであれ、レストランで100人のお客様相手であれ、料理を産み出す向こう側には消費者がいます。その消費者は、単に効率よく栄養が補給できれば良いという以上の、「食事」に対する期待があり、それは幻を求めていると言えます。

100倍の価格の鍋が、食事という幻を産み出す人の道具として、その人の芸の力に寄与できるかが問われるのだと、想像します。

by maystorm-j | 2014-06-22 21:31 | 社会


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