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2014年 05月 15日
自己表現・自己実現のために仕事?
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「別格山菜横綱」とでもいうべきタラの芽です。軽井沢ではフキノトウに飽きた頃にでますので、人気が高く、庭に植えている(たぶん勝手に実生で生えたものを育てている)人も多いでしょう。特段、強い個性があるわけではなく、似た姿のハリギリ(通称アクダラ)の方がいいと言うひねくれ者もいます。採集する時には、その茎からでる鋭いトゲに気づきますが、お店で買う人、食べるだけの人はトゲの存在など見ていないでしょう。「嫁たたき」などと言うひんしゅくを買いそうな別名もあります。あいだに「を」か「が」を入れるかで大違い。この数年は、放射能が新芽に集中するのか、食べることも躊躇します。

欲が絡むと特にそうなりがちですが、人間は自分の都合の良いところだけが見えるようです。視野に入る事象全てが意識されると、とんでもなく大量の情報を処理しなければならず、人間の脳はパンクするかもしれません。道をまっすぐ歩くことすらままならなくなりそうです。生きていくための方便でしょう。

仕事は自己表現、自己実現であるという論調がよく聞かれます。マスコミやそれに登場するコメンテーターの好む論調です。自分の性格や人間性を多少なりとも自己検証していれば、私のような工芸作家が作るものが自己表現ではなく、いくら作って売れていても自己実現ではないことぐらい、片目つぶっていても気づきます。自分の個性に忠実なものを作ったら、きっと誰も買わないでしょう。自分をモデルに何か作ろうなんて、空恐ろしいばかりです。むしろ、自分にないもの、憧れるものの投影と考える方が近いと思います。

しかし、研究者や調査者の中には、自分が斯くありたいというモデルが先にあって、それを現実世界で実現するために仕事があると思っている人を見かけます。こんな新しい発見をしたい、こんなすばらしい解析結果を発表したいなどと、先にゴールを想定し、それに都合の良い事象を選んで並べて見せます。足りなければちょっと加工したり、他から持って来ても、すばらしい目的に合致していれば何も疑問を感じないようです。まるごと幻想の世界を表現する「芸術」と科学の境がわからなくなります。

仕事の内容で自己表現ができ、その結果得られた名声で自己実現できる「輝かしい自分」は、格差社会の中で押しつぶされている同年代の非正規労働者の群れから突出した存在に見えるでしょう。そこに至る経路の正当性や合理性は小さな問題に思えるでしょう。「社会は私の存在を必要としている」という肯定感。

しかし、ある時それが社会から否定されると、どう振る舞えば良いのか、モデルは崩壊してしまいます。ひっそりと無為の空間に引き蘢るか、輝かしい自分を理解されない悲劇の自分に置き換え、自分の存在を華々しく消し去るか。どちらにしても、あまり良い結末にはなりそうもありません。

私の仕事は、ものを作って、それを使う人に買ってもらえなければ成り立ちません。自己表現のためではなく、美味しい料理を作るための道具です。合理性も脈絡もなしに、まともな働きをする道具は作れないことぐらい、身にしみてわかっています。

by maystorm-j | 2014-05-15 08:36 | 暮らし


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