2014年 04月 27日
信州宮本塾20周年記念発行「農村発・住民白書 第2集 ともに生きる」に書いた原稿「山ぐにの暮しと野生動物被害」を3回に分けて掲載します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ [ はじめに ] 農村の暮らしについて、特に中山間地域とよばれる平地が少なく、農業の生産条件が恵まれない地域の暮しは、戦後から今日にいたるまで大きく変化しています。農林業経済学や社会学からの解析はいろいろ行われていますが、環境や暮しの変化を理系や技術系の目で見たり、暮らしている人々の考えや心理を捉えることは、意外にできていないように感じます。「白書」ということではありますが、農業被害を生じる野生動物と山ぐにの暮しとの関係を、私自身の体験を含めて、できるだけ平易に、数字に頼らず見取り図を見るような感じで書いてみたいと思います。 [ 新・旧住民の自然観 ] 信州軽井沢に移り住んで既に35年ちかくになりますが、この数年は軽井沢に限らず、佐久地域全体でも都会からの移住が目立っています。新しく農業を始める若い人や新幹線と高速道路で変化していく新興商業地での雇用があるのですが、同時に団塊世代を中心にリタイア組のUターンや新住民とよばれるここでの仕事を目的としない世帯の移住も多く見られます。 元からの住民も新しい住民も、皆さん一様に「自然が好き」と言います。本音では嫌いな人もいるのではないかと思いますが、表立った答えはみな「信州の自然はすばらしい」と言うことになるようです。では、そこから一歩踏み込んで、「熊、鹿、猪、猿などの野生動物は好きですか?」と聞くと、とたんに反応は様々に分かれていきます。恐い、憎い、嫌い、殺してほしい・・・かわいい、かわいそう、大切、共生したい、まで極端に幅広い反応が返ってきます。一人の人の中でも、両方の気持ちが混在することがあります。抽象的に自然と言われると自然のいいところだけを見て好きと答えるのでしょう。自然の具体的な要素に対する気持ちには、その人の暮しぶり、自然との関わり方が浮かび上がってきます。 [ 70年代以降の自然保護運動とのかかわり ] 1970年代に生物学、森林生態学などを10年ほど学んだのですが、研究者への道をあきらめて信州に移住し、現在も続けている工芸の仕事を始めました。その後も折々、自然観察会や探鳥会などを続けてきましたが、活動のスタンスは70年代の自然保護運動の延長でした。70年代当時住んでいた丹沢山系でも、既にシカによる林業被害が出ていたのですが、依然として絶滅しそうな生物を保護するという考えが中心だったということです。山の中で進行していた野生動物の変化に気づかず、人間が自然を破壊している、野生動物は被害者だという一方的な見方です。例えば、今でも多くの方々は、イノシシやシカを夜行性の動物だと思ってはいませんか? 奈良公園のシカを思い浮かべればすぐに解る事ですが、人間からの脅威がなければこれらの動物は昼間も活発に活動します。人間との直接的な関係や人間社会にある餌によって、動物の行動や生態は徐々に変わり、90年代にはいると急激な変化がおこります。 (写真1 昼間も人里で行動するイノシシ) [ 軋轢ということば ] クマが人里に出没し、ときには人身被害を起こし、イノシシが市街地を駆け回り、サルが東京の23区内にまで姿を現し、シカと衝突した自動車が大破する。そんな報道がこの10年、かなり増えてきたことにお気づきではないでしょうか。日本のような狭い国土に高い人口密度で人が暮らす国で、多くの大型野生動物が生存していることは誇るべきことですが、その動物達の生息域の周辺で暮らす人々の間では、困る・恐い・憎らしいという反応が見られることも事実です。その現場では、ともすると駆除を要求する被害者の声と、保護を呼びかける都会の人の声がぶつかり合うことがあります。不毛な衝突から、実効性のある管理システム、「ワイルド・ライフ・マネイジメント」に進むために、現在の状態を人間と動物の「軋轢」という言葉で捉えることが有意義だと考えています。どちらが悪いというのではなく、人間の暮しと動物の行動が起こす軋轢を、どのように調整していくのかを考えていこうということです。(軋轢という言葉は読み書きが難しいため、適切な表現の割には使われないのが残念です) [ 軽井沢でサル対策と関わる ] 2000年代に入ると、軽井沢でも市街地にサルの群れが侵入し、農地や家庭菜園でも食害が顕著になります。もともとサルの群れが存在しなかったところに、群馬県境を越えて侵入したものですから、「保護すべき自然」ではないということで、2004年には県と町から群れの全頭駆除という方針が提起されます。当時は旧軽井沢など観光商業の中心地にも侵入し、店や家屋を荒らし、交通事故や糞尿被害などが多発します。日光でサルによる人身被害も報道され、観光客の減少を怖れる行政が、全部殺そうと考えたのです。 [ 軽井沢群の全頭駆除方針 ] この全頭駆除方針はひじょうにショッキングな提起でした。疑問を感じた町民が数十人集まって、一部からは全国全世界に呼びかけて反対のメールやファックスを役場に殺到させようという提案もでました。温泉を楽しむサルの写真がスノー・モンキーとして世界の動物愛好家に知れわたっていた当時の状況を考えると、ただ駆除方針をくつがえすだけが目的なら、有効な戦術だったと思います。しかし、地域社会の問題を、他からの数の圧力で変えたとしても、実際に起きている軋轢の解決にはつながらないことは明らかです。 一方で、群れのサルを全て殺せば被害は解決するのかという疑問もあります。軽井沢群とよばれる100頭ほどの群れは、東側の群馬県境から上ってきたものです。群馬県側にはいくつもの群れが棲息していて、群れの数も頭数も増え、一番標高の高いところにいた群れが軽井沢に進出してきました。押し出されたとも言えます。軽井沢群をなくしても、いずれまた群馬県から次の群れが上がってきて、定着することが考えられ、既に碓氷群とよばれる群れが県境を越えてたびたび侵入していました。また、全頭駆除を進める過程で、軽井沢群の社会構造が壊れ、小群に分散して佐久地域の果樹栽培地帯に進出して増える懸念もありました。 [ 被害者の話を聞くこと ] 直前にサルの群れの実態調査を行った地元のNPOや東京の自然保護団体、長野県庁や地方事務所で対策にあたっている部局など、多くの関係者と話しあったり、学習会を行いました。この活動の参加者は多くが新住民で、実際に被害に遭っている地元の人の参加がほとんどありません。そのままでは「かわいそう」と「憎い」の対立が解けることはありません。水俣を始めとする各地の公害問題からから学んだのは、何よりも被害者の言葉を現場で聞くのが出発点だということです。しかし、理念や思いが先行しがちな新住民にはそれができません。現場で被害農家から「お前等、愛護派か!」と怒鳴られたとたんに腰が引けてしまいます。結局、当時既に25年軽井沢に暮らし、子ども達を地元の保育園、学校に通わせた私だけが残ってしまいました。新住民の取り組みで皆殺しは避けられたのですが、その後被害をどうするかという問題には手が付けられませんでした。 ・・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
by maystorm-j
| 2014-04-27 10:28
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