2014年 04月 20日
「野次馬がゆく」 前半  軽井沢史友会「史友 第5号」より
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本年3月に発行された軽井沢史友会会報「史友 第5号」に投稿した文章を、2回に分けて転載します。(縦書きの文章を横書きに変えますので、多少読みづらいところがあります。ご容赦下さい)

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  野次馬がゆく                寺山光廣
二〇一三年後半になって、私は軽井沢町内で活動する二つの歴史愛好家達のサークルに突然参加しました。それまで、郷土史に特段の興味があったわけでもなく、中学高校では歴史は苦手科目。軽井沢に住む時間が既に人生の半分以上になるにつれて、この町の有りようを少し見直す気持ちが底流にはありましたが、他の人々はどんな風に見ているのか、ちょっと覗いてみようという程度の気楽な気持ちです。

三十六年前、子どもが小学校に上がる春に合わせて移住した軽井沢。信州といっても街道筋の別荘地なら他所者も入れるのではないかということ、東京まで各駅列車でも日帰りできるという条件を考えました。当時は、子育て現役世代の移住は珍しく、ペンション2軒に続いて3番目と役場で言われました。周囲からは「旅のもん」と言われ、どうせ次の冬には逃げ出すだろうとひやかされる始末。夏仕様の小さな小屋住まいでは、今の建築とは比べ物にならない厳しさがあったのは確かです。

今も続いているようですが、当時「軽井沢文化協会」という町民・別荘民ともに参加する団体があり、浅間山米軍演習地に反対する運動からの流れが残り、町の歴史や地域社会と町政の負の面も考え、変えていこうとする気風がありました。観光地としてのすばらしい自然を謳いながら、平然と破壊されていく自然。金と利権に動かされる行政は、列島改造論の直後どこでも見られた事ですが、軽井沢は近隣に較べると東京に直結しているだけに、地元の良識では制御しきれないスケールを感じました。

ものごとには表と裏がある。大人ならそんな事は解るだろうと言われそうですが、ミッチーブーム、別荘開発巨大資本、新幹線、長野五輪、バブル景気など、外からの力でふくらんで来たのが軽井沢です。町民の力量をこえて表の意識が増大し、なにごとも「軽井沢礼賛」から出発して考える習慣が蔓延しています。裏は見ない言わない聞かない虚飾の町。近年、近隣の市や町が住民の力で少しずつ変化していく中で、軽井沢だけが今も無反省に増長しているように感じられます。

小学校時代、東京で多摩川の丘陵地帯に住んでいた私は、当時陸稲(おかぼ)などの畑作が多く、何も植わっていない時期の畑で土器や石器を拾っていました。長い年月耕された畑でも、5センチほどの縄文土器のかけらが邪魔になるのでしょう、畑のわきに放られているのをたくさん拾う事ができます。土器の表面に残る五千年前の縄目や人間の爪痕にドキドキ。強い雨が上がった朝、畑に行くと、土の表面に浮き上がった黒耀石が朝日でキラキラ輝くのを見つけるという方法を自分なりに考案し、時には矢じりに成形されたものもありました。信州の和田峠や伊豆から運ばれた黒耀石と聞かされて、そこへ行けば小さなかけらではなく、大きな原石がごろごろ手に入るのではないかと。いつかは行ってみたいと思いながら、信州に移住して以来すぐ近くにありながら、いまだ行きそびれています。遠くから憧れている方が幸せ、と言うようなロマンではなく、ただの「ずくなし」です。

軽井沢も和田峠も、本州では一番の内陸地といえるでしょう。海の幸や塩のない土地に、なぜ縄文人が住んでいたのか。誰がどんなふうに黒耀石を関東へ運んだのか。和田峠の石工が篭に背負って下ったのか、海辺の人々が海藻や貝を干して運び黒耀石と交換したのだろうか。あるいは軽井沢のような境界の峠に交易を専門とする運送者がいたのでしょうか。近年、遺跡発掘が進み、DNA 解析を取り入れ、考古学は縄文時代を、以前の見方よりもずっと社会が発達し、広く栽培や生産活動、交易が進んでいたと示しています。軽井沢の峠道は、関東平野への近道で、時代によっては気候が今より暖かで海面が高く、東側に海が近かった事も考えられます。有史はるか以前から、軽井沢は「道」の地だったのでしょう。できることなら、当時の暮しぶりを覗き見してみたいものです。

弥生文化が稲作をもたらし東へ進むルートを地図上で考えると、近畿から東海、関東へと思うのが自然です。広い関東平野は生産力が高まり、古墳時代には、北関東に大きな勢力が形成されていたと言われています。その時代、軽井沢はどんな位置にあったのでしょうか。古東山道と呼ばれる「古い山の道」を人々はどんな目的で何を運んで通っていたのでしょうか。ヤマトの側から見れば、まず伊勢湾からむこうはあづま=辺境。岐阜(飛騨)は鄙(ひな)。統治が一歩進めば次はしな野(鄙野)。辺境の地という見方は、反対側から見るなら境界の地。時には貢ぎ、時には武力で守らなければならない国境です。東の強大な毛国・異国(けのくに)、毛人(けひと・エミシ?)にとって、軽井沢の峠道と高原の住人は自国か他国か。暖かだった縄文期にくらべると、生産力の低かった時期の軽井沢は、道の要という位置をどう保っていたのでしょう。東・西・南の勢力の接点として、揺れ動いていたのかもしれません。

鄙野が信濃国としてヤマトに経営される時代、諏訪地方からまっすぐ北関東に下る古東山道のルートから、新しい東山道と国府が生産力の大きい松本や上田地方に移るのは政治の原理。軽井沢をはじめ佐久地方の稲作不適地は馬の生産牧場になります。律令制の時代、東から北へと領土を拡げる倭(ヤマト)にとって、人・兵、物資・税、情報・命令の伝達ルート確保は最重要課題。自然の道が発展した古東山道に対して、当時の高速道路・東山道は規格化され幅が広く、直線道路で、道路機能のみならず朝廷の権威を誇示するものでした。軽井沢の峠をどのように越えていたのでしょうか。東北の良馬をつれて都へ上る役人や、税として納める物品を背負って上る庶民の目に、峠の先に広がる軽井沢の草原と煙を吐く浅間山の眺めがどう映ったのか、ちょっとその気持ちになって歩いてみたい気がします。

全国六千キロにおよんだと言う律令制の官道は、現在の高速道路ルートとだぶる所が多いようです。土木工法も全国規準に沿う国策道路で、今の高速道路と建設目的も共通するものがあったのでしょう。軽井沢の峠道はどうだったのか。切り通しはあってもトンネルのなかった時代。しかも、噴火する浅間山の影響もあった時代にどのルートを通っていたのか。火砕流や軽石・火山灰の下に埋まっている古代の遺跡を覗いてみたいものです。失われた信濃国風土記、ひょいとどこからか見つからないものでしょうか。
・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・
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by maystorm-j | 2014-04-20 05:09 | 遊び | Comments(0)


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