2012年 10月 28日
福島原発告訴/名もなき草の根の運動を越える
福島原発事故の責任を追及する全国からの集団告訴を目指す告訴団参加締切が、今月末必着とせまっています。第一陣は福島県内で告訴団が組まれ、1300人ほどが参加しています。今回は全国から1万人を目標に取り組まれています。募集期間が短ったこともあり、目標人数に達せず、月末までの半月延長になりました。まだ、間に合います。

原発に反対する人々で、この半年のあいだ実際に抗議行動や集会・学習会に参加した人だけでも、たぶん全国で50万人ほどはいるでしょう。原発に対する賛否とは別に、放射能を環境に放出した公害事件という側面からみても、その加害企業や監督官庁の法的な責任が問われていない現状は、法治国家としては認められないと考える人も多いはずです。にもかかわらず、このような意識を持っているはずの人の100人に1人ぐらいしか、実際に法的責任を問う行動に参加しないとう問題を考えてみたいと思います。1000万人署名運動が取り組まれる一方で、1万人の告訴人募集に苦労するのはなぜでしょうか。

司法の場で運動することの効果に疑問を感じている人もいるでしょう。確かに、冤罪事件、国策捜査、官に甘く民に厳しい司法の現状を見る限り、司法の場で闘う事に絶望的になるかもしれません。多くの社会問題を司法の場だけで闘かって破れた例は数えきれません。反原発訴訟が連敗に連敗を重ねてきた事はよく知られています。司法関係者、特に裁判官は「世間知らず」と言われる事をとても気にしているようです。裁判員制度は、そのコンプレックスの産物とも言えます。司法での闘いの背後に広範な市民運動がなければ、司法での勝利はないでしょう。

司法の場は法律の専門家でないかぎり、どう闘えばいいのか判りにくいという事もあります。福島地方検察庁に告訴するわけですから、遠方から簡単に行けるわけではなく、実際の活動の多くは弁護士に委任することになります。では、私たち個人が告訴人として参加する意味はなんでしょうか。被告訴人として、東京電力役員の他、関係官庁やそこの御用学者達、福島県立医大の御用医師達、合計33人を告訴します。一人二人の個人的責任を取り上げるだけではなく、原発事故を起こし、放射能汚染を拡げた仕組み全体を対象に構造的に責任を問います。その過程で、自分自身を含む主権者としての国民の選択が、どこでどのように間違えたのかも問い返すことになります。

告訴人になることと、集会やデモで原発反対の声を上げることとの間には、ハードルがあります。一国民として公的に名前を出す事になります。自立した一人の主権者として立ち上がることになります。日本の社会運動が、過去ずっと自立した市民の運動になりきれていない歴史があります。日本人の心の中には、「名もなく、貧しく、美しく」を賛美する気持ちが連綿と続いてきました。自分の事を考えると、「貧しく」は当たり、「美しく」ははずれ。名前は記憶にある限り2週間ほど番号でよばれた経験以外は記憶にありません。韓国朝鮮で、日本によって名前を奪われた人々は嫌だっただろうなという想像はできます。

社会運動に参加する人々が今も、「名もない草の根」の活動という立ち位置で発言するのが見られます。自己の名で自己の考えを述べるより、お気に入りの学者や評論家、活動家の言葉を借りて表現することが多く、講演会や上映会の方が仲間同士の学習会や討論会より盛んに開催されています。金曜日の官邸前抗議行動は、名もない草の根の人々が、統一されたワンフレーズに集約された大集合に見えます。参加者一人一人の顔が映るネット動画は、同じ意識を持つ人しか見ません。テレビに映る事はないので、帰ってからお隣に「あなたが映っていたよ」と言われる事はありません。

一方で、原発事故で家や仕事を失ったり、放射能の被害に遭う事は、一人一人きわめて具体的な問題です。被害は具体的で、被害者には一人一人の名前があります。被害者として告訴する行為は、自分の名前において加害者と向き合う事です。このハードルを越えることが、自立した主権者として社会と関わることにつながると思います。今後、子ども達に健康被害がでるかもしれません。その子ども達には、ひとりひとり名前があります。
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by maystorm-j | 2012-10-28 09:07 | 社会 | Comments(0)


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