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2012年 02月 18日
一体感と同調主義、身近でやれる事の危うさ  2012年2月18日
中学校の一年生のころでしたが、同級生に父親が外務省に務めていた子どもがいました。半世紀以上前のことになります。ある日その母親が学校に来て、クラス全員の前で、牛乳瓶のキャップの上にかぶせてあるビニールの回収を呼びかけました。当時、牛乳は直接瓶から飲むので、瓶の縁が汚れないように、10cm四方にも満たない小さなビニールがかぶせてありました。瓶の形に沿って立体的にふくらんでいるそのビニールを集めて、枕の中身にし、どこかの施設に贈るという趣旨でした。それ以来、昼休みになるとクラス中でビニールが集められ、その同級生が持ち帰りました。

いま思い起こすと、きっと海外勤務の間に見聞きしたボランティア活動を、日本に持ち込んだパイオニア的行動だったのでしょう。いつまで続いて、枕がいくつ出来たのかはまったく記憶がありません。半世紀前の中学一年生に、社会的な意識を持たせた意義はあったと思いますが、はたしてビニールでできた枕が快適であったのか、またその外務省勤務の家庭でそのような枕を使っていたのか、当時はあまり考える事もなく過ぎてしまいました。

子どもが小学校に入った頃、子どもの同級生のお母さん達が、牛乳パックの回収を呼びかけました。牛乳パックの紙質が良いので、どこかの施設で紙に漉き直し、ハガキを作るというものでした。回収と運搬にガソリンを使い、施設では防水加工や印刷インクを落とす必要を考えると、はたして割が合うのかという疑問を言うと、お母さん達からにらまれてしまいました。今も牛乳パックや食品トレイは、買った店舗の回収ボックスに戻していますが、その結果どれだけの省資源・省エネルギーになっているのか、全くデータがないまま習慣的に続けています。

「身近でやれる事からやりましょう」という呼びかけには、疑問があってもなかなか反論しにくい雰囲気があります。何か行動するとき、その結果得られる事と失うものがあります。仕事であれば、それを天秤にかけて、さらに労賃・配当などの利潤がが出るかを考えますが、ボレンティア活動では、賃金が出せるかは無視されます。さらに、達成される利益よりコストが高くても、目的が正しいということですまされる事が見られます。子どもの教育を考えるとそれでもいいかなと思う事もありますが、大人のする事かという疑問が残ります。

目的がほんとうに良いのか、行動しようとする人が自分の意識を肯定するあまり、その行動がもたらす効果や、行動が引き起こす状況の変化を検証しないことが多く見られます。例えば、戦争中に見られた「バケツリレー」や「竹槍」など、「身近でやれる事から」の究極的行動のように感じます。意識だけが先行し、効果を検証しない運動は、その正当性を合理的に説明出来ないため、一体感や同調意識を強要する形で勧められることが見られます。

外国人の意識についてよく知っているわけではないので、比較出来るわけではありませんが、どうも日本人が社会的行動を選択する際、一体感とか同調意識とかが大きな要因になっているような気がします。それは、積極的に行動を選択する場合に限らず、周囲と異なる行動を提起された場合に拒否する要因にもなります。福島で、子どもの被曝を怖れて避難・疎開を呼びかける運動に目をつぶり耳を塞ぐ事にも見られます。自分だけが逃げるのは嫌だ、みんなが安全だ言っている。一体感や同調意識が個人の合理的判断と選択を疎外する要因になり、地域への縛りとなっています。日本人の政治意識には頂点同調主義が見られると内橋克人さんが述べていますが、日本人の社会意識には底辺同調主義があるのではないでしょうか。

反原発運動の側にも、一体感や同調を強要する作法があります。先日、近く(と言っても田舎の事ですから20kmほどの場所)で反原発の集会があり、映画上映やパネル展示など充実した内容でした。その最後に、一番の目玉とも言える「武藤類子さんの話を聞く」企画がありました。圧倒的な力強さと繊細さを兼ね備えた福島の女性達の運動のなかで、活発な発言をしている武藤さんについては、いくつもの映像で見聞きしてきましたが、ご本人から生の言葉が聞ける機会ですし、聞いてみたい事もありました。

忙しさにかまけて福島へ行けないでいる私より、もっと忙しい中で時間をさいて遠くまできていただくのですから、最大限の感度で受信する気持ちでいました。私同様に気の短い年輩者も多かったでしょうが、武藤さんを前にしていろんなあいさつやら、歌が先行しました。あいさつの内容に異議があったわけでも、歌が良くなかったというわけでもありませんが、あいさつや歌で一体感をつくることが、武藤さんの言葉の前にだいじなことなのか。なんだかマインド・コントロールのように感じました。自然と共にある武藤さんの暮らし方は、決して一般的なものではなく異なる暮らし方との間で疑問や意見のやり取りは予想されました。そして武藤さんの言葉には、異なる生き方を越える普遍的な呼びかけが含まれていたと思います。

人がその生き方に基づいて何かを語り、それを受け取った人との間で言葉を交わそうとするとき、その前に一体感や同調を高める作業は虚しく感じます。少数者として疎外感や抑圧感を感じている人々が、歌やあいさつを通じて孤立感を解消し元気になることがいけないとは思いませんし、サウンドデモなど、おおいに楽しんだらいいと思いますが、どこか一方通行ではない静かな回路が生きていることもだいじな事です。限られた時間をすべて、遠来の一人の客人に託すことも考えてほしいことです。

武藤さんの映像はいろいろあります。まとまったものではIWJに長編が数本、最近のものではOurPlanet-TVのインタビュー「福島からあなたへ」武藤類子さんインタビュー~スピーチに込めた思いとは、がお薦めです。
森住卓さんの写真がそえられた武藤さんの新著「福島からあなたへ」もぜひ。

by maystorm-j | 2012-02-18 07:47 | 社会


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