2016年 09月 24日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その13
d0164519_08324991.jpg岩手県の沿岸部で、年輩の農業者による農産物を中心に産直販売所を経営する人と、ツイッター上で議論を展開しました。きっかけは、みなさん、都市から地方へ動き出しませんか?不便は、都会では手に入れられない「豊かさ」がある。もう地方でも情報は都市と同じ。』と言う呼びかけに対して、私から返信を送って始まりました。先方の書いた内容を勝手に転載するわけにはいきませんので、話の流れが解るていどの要旨(『 』内)を入れながら、私の発言を転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

流入人口が多い軽井沢でも、田舎の豊かさを楽しんでいるのはリタイア組の年寄り新住民。10年で体力が続かなくなる。(流入する)若い人は都会と変わらない飲食とサービス業に集中し、特色のある製造業は衰退。働き盛り世代(35〜50歳)は、子どもの教育環境が不安。ネット人口は少なく、本屋は一軒もない。

『自然が豊かで教育環境はいいはずですが』

50年前と違い、今は大学進学が50%。二人都会の大学へ出すと、毎年500万かかる。都会と地方の所得格差を考えると、かなりきつい。親は自分の理想を求めて地方へ行っても、子どもには子どもの生き方があり、親を肯定するとは限らない。自然の豊かさは年とって判る事が多いかな。

そのまま都会にいれば(大学に)行けたのにと子どもは思う。無理をしても、こどもには(社会人になる時に)有利なスタートを切らせたいと思う親。(実情は)奨学金数百万円の借金を背負って社会人に。(働き盛り世代では)単身赴任が無難な選択。地方は生産の場より販売市場と見られがち。

『奨学金や苦学は自信につながる』

非正規雇用化が進む若い世代の就職事情では、300万円の奨学金返済はきつい。地方の工場は海外へ、地域商業から大規模流通企業の販売市場化。暮しを主導する役場も、経済を主導する地方銀行も学歴社会という構造を変えないと、新しい経済モデルが見えてこない気がします。

『起業してお金はなくとも幸せな人生。幸せの形の多様化』

都会から地方への移住。(退職金と年金のある)リタイア世代は身軽。若い世代も仕事があれば比較的自由。30代後半〜50は、都会での暮らしを続けていれ不要な苦労を、自分の幸せを求める事で子どもにかけてしまう事を躊躇する。30で信州に移住し、たくさんの起業を見てきました。


地元の人が起業する場合、周囲の関係に支えられる。それでもリスクは大きく、多数の成功例も悲惨な失敗例も見てきた。都会から移住して起業する場合、ゆとりのある高齢者は半分遊びで、若い人は儲からなくても体力で乗り切る。失敗しても転身可能。壮年期の移住起業は容易でない。


2年前の文章なので、その後変わった事もありますが、時間がありましたらご参考まで。 
http://maystormj.exblog.jp/21001859/


『信州は、いまの東北に起きていることをもう経験?』


(信州というよりは)軽井沢では人口の何倍もの購買力があるため、経済活動の様々な要素が極端に先鋭化して短時間に現れる。「幸せの形も多様化」は重要なポイント。「最大多数の最大幸福」から「多様な個人の最適幸福」へ意識を変えて、画一的大量生産大量消費から、個性的消費が主導する生産販売へ転換。


(現在の)商品経済では価値観の画一化が進む。しかし消費人口の少ない地方で、(商店に)あらかじめ多様な商品選択を用意するのは困難。多様な消費の側が最適な生産を促す、オーダー生産を含む回路が望まれる。生産販売消費を見渡せる位置にいる方々の考えを聞きたいです。


『高級品ではなく小さな農業が基本の商売。壊れた町で人がどう動くかを考える』


一人で細々続けてきた私の仕事は(農家の産直)より小さい。製品単価は高いが、上流階級には売れません。軽井沢ではほとんど売れない。客層は上が5%。中の上が15%、中の中50%、中の下25%、下が5%。かなり無理をして買っていただいている。(その客の)期待に応えられているか常に気がかり。


小規模自営業が「安かろう悪かろう」を製造・販売していては、大規模量産量販資本に太刀打ちできるはずがない。客は(価格が)高いなりの満足が持続するか、それぞれの幸せを感じられるか。個性的で高い消費の期待に応えられるのが小規模自営の強み。そのためには、スキルアップとシステム構築。


『JAの規格にあった製品を大量生産して大規模にやることは収入に繋がりますが・・・隙間の生産物や行事食、大量に生産できないものにもマーケットが』


隙間製品も行事食も狙いは正解だと思う。他にないものなら、2倍の値段を付けてはどうだろうか。農家には倍の価格でも満足するものを作る楽しさとプレッシャー。販売者にはしっかりとした情報伝達、製品説明、客の反応のフィードバックが求められる。私は一人で両方、四苦八苦の連続。


『値段を高くはできないです。ばあちゃんの作ったものを自分は作らないけれども食べたいと言うなんともいいがたい想いが産直を後押し』


今日、農協の直売店へ。スーパーより安いではなく、質の良さを期待。産直=安価では、産直店間で負のスパイラルに。農産物はもともと季節や天候で数倍の値動きがあたりまえ。安くないと売れないというのは思い込みでは。とりあえず必要な安いものと、高いが他にはない高品質の併存?


『産直では値段を決めるのは生産者、そこの意識が変わっていかないと難しいです』


エキサイティングな議論につきあってくださり、ありがとうございました。思いを言葉に紡ぎだせる人は本当に少ないです。四国の「葉っぱビジネス」が話題になった事がありました。生産者の一人の意識が変わると流れが変わるかも。


『葉っぱビジネスには開業時に注目。農家に本やDVDを紹介した』

『産直が生産者を作り出せて、生産者が売り手の意見を聞いて協力してくれる事で活性化』

d0164519_08301570.jpg

以下は、東北の同じ市内に住む年配男性(産直のお客)がツイッター上に書いた『産直は新鮮でなければだめ』という主張に対する私の返信です。


魚も野菜も、高品質高仕入れ価の品を、常時多品目揃えるのはリスクが大きい。せっかく産直は生産者・消費者双方の顔が見えるのだから、販売者を介して、「明日、AさんのXXとBさんのOOが欲しい。倍の値段で買うから最高のものを」と(消費者側から)オーダーしたらどうなるだろうか?


オーダー制作の場合、お客様の期待する以上のものを作らねばという意識が強い。展示販売品と同じ価格ではきついが、具体的希望をかなえるため、新しいデザインや機能、技術の開発につながるケースも多い。倍の値段になるなら、期待を大きく越える可能性。消費が牽引する生産


遠野の道の駅には行った。小諸の西にある「雷電くるみの里」と同じタイプ。高速のSAにも時々このタイプ。客は旅行者がほとんど。産直の生産を引っ張るのは、余裕がある地元消費者の具体的要求ではないか。退職組、学校・保育園の先生や病院・役場職員などが牽引役に。


(勤め人に帰宅時間と産直の営業時間が合わないて言う点について) 退職組はOK。勤め人はオーダーを入れて、帰りに受取る。遅い場合はロッカーに。土日もある。やりかたはいろいろ。その手間に見合う高付加価値商品が提供できるかが問題。地域の中流消費者を狙うこと。野菜宅配農家・業者はそれをこなしている。送料がかからない分、有利。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、切り貼りの構成で解りにくかったかもしれません。予告なしで、いきなりの議論に適確な応答をくださいました産直経営のHさん、ありがとうございました。


[PR]

# by maystorm-j | 2016-09-24 08:39 | 社会 | Comments(0)
2016年 09月 22日
G7交通大臣会合の軽井沢誘致は誰のため

d0164519_14245943.jpg前線が列島から少し南下して、大陸から高気圧が移動してきたせいでしょうか。気温が12度台まで下がるようになり、連日の雨が重なって9月としては寒い日が続いています。お盆あけからほとんど残暑と言うほどの暑さはなく、例年より活発な秋雨前線が張り付いています。今年の秋は暑いと気象庁が発表し、地球温暖化を言いたいテレビのお天気おねえさんはそのとおりにおしゃべりしているようです。今年は面倒になり、朝顔の種は苗床で作らず、去年のこぼれ種が発芽するのにまかせていました。春に芽生えたものは成長できず、梅雨に入って発芽したものが、細々と今ごろ地際で小さな花をつけています。


今朝は明け方まで降っていた雨が1時間だけやんで、6時から町内の清掃。べたべたの濡れ落葉を掃いても、さほどきれいにはならず、これから落葉期に向って、無駄な苦労です。週末にG7交通大臣会議があるので、きれいにしておきたいのは分かりますが、こんな町外れまで会議に集まった人が来るとも思われません。町ぐるみで歓迎という格好にしたいのでしょうが、役場周辺の一部の人以外は関心もありません。会場はタクシーも不要な駅隣のプリンスホテルですから、旧軽井沢にさえ人が流れることはないでしょう。まして、人口の多い中軽井沢周辺、南側の農業地帯やJRで2駅離れた追分地区など、何の恩恵もなく、交通規制・交通渋滞で迷惑するだけ。誘致のために町の予算を使い、町民、役場職員や警察官の労力を供出し、利益はホテルとせいぜいその手前に広がる同じグループのショッピングモールに落ちるだけ。町民はちらっとテレビに映る我が町に、ちょっぴり自尊心をくすぐられるかもしれません。町長は内外のお偉方に歓迎の挨拶かなんか述べて、自分も偉くなった気分になれるかもしれません。今時、5月のサミット本番の結果を振り返るまでもなく、G7が世界の平和や人々の幸福に貢献する会合だと思っている人はあまりいないでしょう。軽井沢は昔から西武資本・プリンスホテルの企業城下町です。新幹線軽井沢駅に接する南側の広大な土地を一つのグループ企業が所有しています。今回もお殿様に貴重な町税と労役を吸い上げらることに。


西武グループの中核でプリンスホテルを保有するコクド(国土計画)は1920年の操業以来、一度も法人税を払った事がないと言われています。


[PR]

# by maystorm-j | 2016-09-22 14:32 | 社会 | Comments(0)
2016年 09月 19日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その12
軽井沢に住んで38年あまりになります。当時は、都市部を除く信州の町に都会の人間が移住して、仕事と子育てをすると言うのはまだまだ珍しい出来事。ペンションブームが起きる最初の時期にあたっていたので、軽井沢で2番めと3番めのペンション起業者家族2組と私が、軽井沢への最初の移住家族と役場で言われました。もちろん、地元銀行など大きな会社や官庁の出先機関などの転勤組家族は以前からいたでしょう。都会に出ていた人がUターンしたケースもたくさんあったと思われます。そのような関係性を背景に持たない移住は珍しかったという事だったようです。子どもの小学校や保育園に行くと、特殊な存在だという事が実感できました。

d0164519_07252873.jpg
軽井沢のように、有史以前から交通の要衝であり、大動脈中山道の大きな宿場3ヶ所、鉄道の時代になってからも信越本線3駅と言うのは、当時の人口1万人あまりの小さな「町」としては別格。外の社会との交流が活発な地域である事を象徴しています。にもかかわらず、あるいはそれ故かもしれませんが、軽井沢に来て感じた事に、街場の家々が小さい。寒い地方にもかかわらず、簡素な作りで小規模な家が道路沿いに立ち並んでいます。東隣の上州群馬では、背の高い屋敷林に囲まれた大きな家が多く見られます。信州でも、他の地域には向井潤吉の絵に見られるような、(さすがにかやぶきは当時も少なくなっていましたが)、貧しくとも人々を大きく包み込むような家、代々受け継がれ家族の歴史を感じる家があります。軽井沢の家はどこか東京で見るマッチ箱のような家、別荘建築も旧軽井沢の一部に見られる旧華族、大政治家や財界人の別荘を除くと、周辺部ではやはり一代限りの夏だけの家という作りでした。旧軽井沢銀座通り以外には、間口が狭く奥行きが裏の通りまで続く伝統的な商家は見られず、表通りに面した壁だけがりっぱで、横も裏もぺかぺか、裏には不要品の山が積まれている安っぽい商店街の造りです。

都会の高度成長経済、めまぐるしいスクラップアンドビルドが、信州の小さな町に持ち込まれた結果、家というものの意味が変わってしまった。多くの人が集い、安息と同時に生業の場として作業し、長く使い続けるものではなく、活発だが入れ替わりの激しい商業や、交通、建築などの外部の仕事に出かける個人労働者と学校に通う年齢の子どもが夜を過ごすという、都会の家と同じ機能になっていた。家庭にとっては最大の富といえる家が、耐久財でも、高機能でもなく、一時的で単機能の消費材になっていた。別荘と同じで、代替わりや家族が移動するたびに、一世代の少ない貯金とローンで建て替えられる消費材としての家。

d0164519_07255774.jpg
富がどうすれば蓄積し、暮しが豊かになるのかを、これまで個人の消費行動が主導する生産という視点を中心に考えてきましたが、ここで個人から小さな集団の消費に視点を移して考える事も出来ます。家という富を集団で共有する事で、家の高品質・高機能・高耐久性が得られるのではないか。集団内の個人や小家族のプライバシーを守りながら、全体としては使い勝手が良く、少しずつ構成員が入れ替わっても長期間維持される家は、最初に充分高度な設計、信頼できてメンテナンスも任せられるオーダー施工、共同管理体制など、小さな集団の公共意識と共助能力につながるでしょう。既存の家の貸借シェアリングは既にかなり見られ、資金を分担する共有も試みられています。都会では車や自転車のシェアもあります。高価格消費材の場合は、共有する事で得られるメリットが大きいかもしれません。

地方財政は逼迫していますし、国レベルでも借金財政から均衡財政へとはたしてソフトランディングできるのか、クラッシュが起きるのか判らない状態ではないでしょうか。暮しを守るためには、民間に高品質で持続性の高い富を蓄積しておく必要がありそうです。官に頼らず、民の間で富の生産、販売、消費、蓄積の流れを作ること。個人、小家族だけではなく、小集団でその富みを共有する方向も有効ではないかと考えてみました。

[PR]

# by maystorm-j | 2016-09-19 07:39 | 社会 | Comments(0)
2016年 09月 16日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その11
気象庁のサイトで天気図を見ると、例年通りの秋雨前線が列島南岸に張り付いていますが、周囲の気圧配置は複雑です。梅雨時から見慣れない気圧配置が続くと思っていました。小笠原気団(太平洋高気圧)が発達しないまま、梅雨前線が消えて夏に。台風は夏型のコースをとらず迷走。どうも、ジェット気流(偏西風)のコースが変化しているようです。先日、気象庁はラニーニャの発生を発表しました。二酸化炭素の増加につれて、気温はまっすぐ高くなり、それにともなって異常気象が頻発すると刷り込まれてしまった人々には、日々変化する気象現象を見ながら、その背景を探るという意識は起きないようです。温暖化のせいだと決めつけて、思考は停止。同調軸が設定されると、一つ一つ疑って考えるのは面倒なのか、軸から外れる事が不安なのか、子どもの頃から「みんなと同じ」です。まれに赤やピンクのランドセルを背負った男の子がいると、「オッ!やるじゃん」と言いたくなります。

d0164519_07444342.jpg
昨年、安保法制が国会を通った直後に、共産党から野党共闘と国民連合政府が提案されました。国会内外における反対運動の敗北。国民の過半数が反対や危惧していたにもかかわらず、なぜ運動が負けたのか。その反省、検証から新しい運動の可能性を探る思考と議論を経ずに、いきなりその日のうちにトップダウンで次の方針が下される不快感。内容以前にその事だけで不愉快。さらに、市民運動が議論を経ないまま、拍手喝采でその結集軸に同調していく。これのどこが民主主義なのだろうか。ある会合で今こそ統一と団結が必要なんだと説く論客に対して、議論抜きでいきなり連合政府まで提起されて市民が同調する流れに懸念を述べて、「統一と団結」ではなく「多様と連帯」を探るべきではないかと述べました。それに対して共産党の提案に賛成する側から連合政府の意義や必要性が述べられるかと思ったのですが、「そんなの一緒じゃないか」と言う答。ああ、そうなんだ。「統一と団結」「多様と連帯」は一緒なのか。いくつかの市民運動に参加していますが、このことに違和感を述べる仲間に出会わないのは、みんなもそうなんだと納得。

「統一と団結」という呼びかけは、みんな同じ仲間じゃないか、同じ人民、同じプロレタリアート、同じ99%じゃないかという枠内で成立します。子どもの頃から、何か特別な属性ゆえではないけれど、たえず自分がマイノリティーだという意識を持ち続けてきた私には、どうしても馴染めない仲間意識です。その意識に支えられて、プリントされた同じプラカードを一斉に掲げるのでしょう。誰に向って? 同じ仲間にむけて、自分も同じ考えである事を示すため? デモで表現すべきは、外に向って語る言葉ではないのか? 街頭で語るべきは、自分と異なる考えの人達に向って、多様な疑問や批判に応える言葉ではないのか。シングル・イッシューに運動を集約する動きは、安保法制以前から、首相官邸前の首都圏反原連の運動や、その周囲の反放射能運動に強く見られました。異論を許さない圧力は、集会やデモの現場と同時にネットでのバッシングとして表れます。討論会や学習会などの市民運動では、それが異論に対する無視・無関心という反応となります。これまでたびたび同調圧力について書いてきました。しかし、圧力が生じる前に「同調可能」な範囲に問題が設定されている事がありそうです。アベノミクスに対抗する経済政策を積極的に提案すれば、論議が必要となり、賛否が分かれます。仲間内で賛否が分かれるような課題は、最初から取り上げない方が「団結」が保たれるでしょう。「アベの政治をゆるさない」という、反対する事にのみ課題を統一すれば、団結しやすいことになります。この内向きの動機と展開は、対案が欲しい、異なる生き方を見出したいと願う運動外部の人からはすぐに失望されるでしょう。

今後、自衛隊の派遣や憲法改正問題など、一人一人の考えを明確に表さなければならない事が増えるでしょう。9条については、自衛戦争、自衛の軍備を認めるかどうか、きちんと議論する事なく護憲派の間でも70年間、ずるずると「解釈改憲」が行われてきました。歴史的には日本にもあったHoly war (聖戦)を主張する人は現在ほとんどいないでしょうが、Just war (正戦)については護憲派の内部で大きな意見の相違があります。この問題については、西欧社会でも中東でも過去2,000年、議論されてきた歴史があります。国対国の関係にとどまらず、国対個人、個人対個人の関係においても、武力行使、自衛、報復の権利について、深く考えられてきました。

自分がマイナーな人間だと感じるのは、何か一つの属性、一つの領域においてではなく、健康、感性、精神の発達史、社会的位置、職業・・・様々な領域において異なる指向が併存します。一つに統一された自分のアイデンティティーが、周囲に普遍的なアイデンティティーの集合との間で齟齬をきたすというのではなく、自分自身の中に複数のアイデンティティーが存在し、外部の様々な集団に同調しつつ参加する事を妨げているようです。帰属意識が薄弱、あるいはアイデンティティーのない人間という方が正確かもしれません。皆さんはどうでしょうか?統合された一つのアイデンティティーに沿って感じ、表現し、行動しているのでしょうか。己の中で複数のアイデンティティーが「本当にそうなの?」とささやきかけてきませんか。ためらいのない正義、後ろめたさのない良心に従って発言と行動をしているのでしょうか。

d0164519_07451563.jpg
講演会や学習会に参加すると、話している人にむかって多くの聴衆が頷いたり、相づちの声を漏らしたりする光景をよく見ます。そこで語られている内容が本当にそうなのか、パソコンやタブレット、スマホでしらべたり、参考書籍を開いている事はほとんどありません。その証拠に、大きな鞄を持ち歩るく習慣もなくなったようです。話を聞いていると、次々疑問や不整合な事象が浮かんで来て、大急ぎでiPadや持ち込んだ本で調べるのですが、周囲を見回すとそんな人は他にいません。信仰集団の集会に紛れ込んだ気分。独りあくせくしながら、居心地の悪さを噛みしめて帰り、ああまたかと。9.11の後はまだ、異なる視座からの疑問が提出されて議論がありましたが、3.11の後は、決まった反応をそれぞれがなぞっていくような論述の進行と聴衆の反応、レールの上を脇目もふらず、です。その結果、どうもそこは自分の居場所ではない事を確認するために参加して帰ることになります。

なんだか、愚痴ばかり書き連ねたようです。今回は「経済の土俵」にのぼる前に土俵の角で向こうずねをしたたかに打って転けたというところでしょうか。次回はもう少し具体的な考察を心がけます。



[PR]

# by maystorm-j | 2016-09-16 08:07 | Comments(0)
2016年 09月 12日
ぴんころ地蔵をもらってしまった

d0164519_05222375.jpg

お盆のころですが、会った事のない人から人を介して、ぴんころ地蔵をもらってしまいました。信州、とりわけ佐久地方の人なら当たり前に知っているのですが、たぶん全国版で知られていると言うほどではないでしょう。PPK運動というとますます???でしょうが、ぴんぴんころり、元気に長生きして、寝込んだり認知症にならずに、ころりと大往生を遂げたいものだと言う願望に発するものです。そのために、齢とってからも運動したり、菜園で汗を流したり、知的活動や健康診断。積極的に「老いに向かい合う」姿勢はいいものでしょう。退職金もなく、まともな年金もない私のような職業では、かなう事なら最後まで元気に働いていたいと、切実な思いもあります。

それにしても目の前のぴんころ地蔵を見ていると、見ず知らずの他人から最後まで元気に働けと言われたようで、なんとおせっかいなという気もします。もし現実に働けない状態になったら・・・いかに本人がぴんころ願望を持っていても、先の事は判りません。「酒が飲めなくなったら、生きていてもしかたない」と元気なうちは豪語していた人も、いざ医者に酒を止められたからといって自らあっちへ行ってしまったという話は聞きません。せいぜい人目を盗んでちょっとだけ・・・が関の山。元気な時に尊厳死を望んだ人が、その後もずっと気持ちが変わらないという保証はありません。まして、本人の願望の他に周囲の人達の願いや思惑もあります。しょせん、ままならぬ命と思い定めるのが自然ではないでしょうか。

ぴんころ願望を裏返すとどこか、「生きている価値のない命」が存在するという考えを認めることになるかもしれません。意識もなく、まわりに負担ばかりをかける命なら、早く消えた方が良いということにつながらないでしょうか。死に至る経緯は、突然一気に進む事もあれば、山や谷があったり、少しずつグラデュエーションを描いていくこともあります。もちろんどこから命に価値がなくなるなんて、線引きできるはずはないでしょう。死に近づいていくなかで、少しでもQOLの改善をはかったり、痛みを減らしたりする緩和ケアの充実を否定する事にもなりかねません。一見、人間なら当然の願いと思われることが、ちょっと視座を変えると、命に対する畏敬の念を損なう精神風土を醸成する可能性が見えてきます。現在ぴんぴんな人はそのままころりと逝きたいと考えるかもしれませんが、今ぴんぴんではない人がどう考え、どう生きているか、周りの人がどう思い、かかわっているか。だいじな視点をなくしてしまいそうです。


個人として自分の「生き方」を考えるということと、「死に方」を想定する事の違い。どちらも、周囲の人々と調整しながら実現に努力することでしょうが、後者は努力ではカバーできない不確定要素が前者に較べてはるかに大きくなります。だからこそ、ぴんころ「願望」であって、お地蔵さんに願掛けしたくなります。しかし個人の秘めやかな願いを、他人に大きな声で広言するとなると、個人の願いを集積して社会の精神に築かれてしまいます。その時に起きる共同体が発する精神的圧力、さらにそれが社会のシステムになり、個人を縛り、時には抹殺する力になりかねません。最初に引用した佐久市野沢商店街のサイトを見ていると、街おこし運動、金になる運動という側面にも支えられた、空恐ろしさが伝わってきます。


[PR]

# by maystorm-j | 2016-09-12 06:09 | 暮らし | Comments(0)
2016年 09月 07日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その10
隣の家の道端に咲くムクゲ。純白の花を選びました。韓国では無窮花(ムグンファ)とよばれ、国の花とされています。日本人にとってのサクラより、この花に対して韓国人はさらに深い陰影をともなう思いを持っているのではないかと想像します。「象徴」から感じる思いや問いかけは、それが無言であることで、より深い思考と感情を促すでしょう。
d0164519_04345407.jpg

先日、地元の護憲団体の学習会に参加しました。めずらしく、自由討論の時間が充分にあって、議論のきっかけとなるよう、いくつかの問題を提起。最初に、「原発、TPP、安保法制などの個々の問題では世論調査は反対が過半数を示すにもかかわらず、なぜ選挙のたびに負けるのか。何が足りないのか反省する必要」を述べました。「これは間違っている」という反対は出来ても、積極的に「こんな社会にしよう」という提案が弱いのではないか。特に経済の問題では、分配の不公平を述べていても、富の生産に対するビジョンがない。左翼リベラル系では、資本主義はすでに限界であり、経済は成長しない事があたりまえのように語られる。しかしこの20年の間、先進諸国の中で経済成長が止まっているのは日本だけで、ほとんどの国はGDPが2倍以上になっている。日本だけが異常な状態と見るべきではないのか。新自由主義経済によって、自然環境、生活環境、労働環境すべてが破壊され尽くす前に、異なる経済を我々は提起しなければならない。

もう一つ、SEALDsや市民連合が野党共闘を促し、一人区では一定の成果をあげたが、全体を見るならとても勝ったと言える結果ではないこと。最初の問題に対する参加者の反応はありませんでしたが、この問題では「若い人達が初めて声を挙げ、野党共闘につながった」とする肯定的な反応が主流でした。私は「声を挙げる」と「語る」事の違いを述べました。上に向って、政治家や政党に向けて共闘と野党統一候補を要求する圧力にはなりましたが、同じ仲間達、横に向って語りかける言葉をもっていなかった。SEALDsの集会で延々と続く「民主主義ってなんだ・・・これだ」というコール。デモや集会がなされる事が民主主義であるという主張、そのデモや集会の目的は「民主主義を取り戻す」である。運動の目的と方法が同じところをぐるぐる回っていたに過ぎず、これでは何も語っていない。星の王子さまに出てくる「酒飲みの悲しみ」を裏返しただけです。

世論調査が安保法制反対過半数、安倍政権支持の低落を示した昨年夏、マスメディアは急にSEALDsを肯定的に取り上げ始めた。国会での論戦や内外での憲法論議から、街頭での若者の活動に注目が移されます。本当に若者が一斉に声を挙げたのでしょうか。マスメディアや政党による意識操作を感じていました。SEALDsの実体はせいぜい1,000人程度。学内の多くの学生の共感を得ていた様子はなく、まして自己を賛美するエリート意識丸出しの彼らに、非正規雇用でワーキングプアにある同世代の人達が賛同していたとも見えませんでした。SEALDsの行動では、先頭の若者と学者集団の後に続くのは、ほとんどが年輩者だったのではないでしょうか。同世代をリードする運動ではなく、年寄りのアイドルにすぎませんでした。

60年安保、68年全共闘運動以来、初めて学生が立ち上がったともてはやされました。60年安保の記録や、その後に経験した学生の運動を振り返ると、大学ではクラスや学科で活発な討論があり、多数のセクト(党派)系学生にまじって、多くの無党派学生も活動し、積極的に学生大会や討論会に参加、学内いたるところでアジ演説が(辻説法)見られました。講義が始まる直前の教室では、学生に向って数分間語りかけながらビラ(チラシ)が配られていました。街頭に出て活動する学生の背後には、それぞれ何人もの学内活動家がいて、その背後にはさらにそれぞれ「シンパ」とよばれる賛同者や議論に参加する活性化した一般学生が多く存在しました。横の語り合いから運動がつくられていたのです。そこでは、上から与えられた言葉に頼る党派系学生より、無党派で個人として運動する学生の方が、自分なりの状況解析と自身の言葉を磨くことの重要性を感じていました。

SEALDsの運動は、同じ若い世代に届ける言葉をもっていなかった。選挙の投票結果がそれを冷徹に示しています。人に未来を示し動くエネルギーを生む言葉のないまま、便宜的に数合わせを目指した野党共闘路線が、選択肢の多い都市部や比例区では支持されず、選挙の終了とともに崩壊するのは当然です。「民主主義は数だ」という考えから、「民主主義は言葉だ」という考えに転換しなければならない事を感じます。


[PR]

# by maystorm-j | 2016-09-07 06:48 | 社会 | Comments(0)
2016年 09月 06日
産卵場所を探すアカハナカミキリ

迷走していた台風10号は。東北地方に上陸した後は一気に駆け抜けていきました。海上を北上したため、大きさも強さも衰えず、風による収穫期の農業被害が懸念されていたのですが、結果は雨による人的被害を多く出してしまいました。農業被害は予想できても対策が難しいことがありますが、人的被害は常に予想外の経過をたどります。「予想外」だったとはいえ「予測不可能」だったとはいいきれないところが悔しいわけで、日頃、様々なシミュレーションをしていれば、予測の範囲は広がり、あらかじめ対策が可能だったかもしれない。残念ながら事後ではあっても、しっかりした検証が必要でしょう。失敗の検証が不充分なのは、日本の歴史で常に感じる精神風土です。異常な体験と、そこで起きる悲劇や美談が注目されて、起きた事柄の構造的把握や原因追及は忘れられてしまいます。

それにしても、極東地域の気圧配置は変です。見慣れない天気図が続いています。作業場の暑さ寒さは我慢できても、台風の風で屋根が飛んでしまったりすれば、どうにもなりません。簡単なシミュレーションですが、嫌な事は想像したくないのが人情。この秋は仕事場の事を考えなければならないと思っています。d0164519_09543998.jpg


昨日5日、作業場の中に飛び込んできて、あちらこちらの木材にとまっていた虫が、カメラを取りに行っている間に外へ。出入り口付近に放置されているカラマツの丸太、いい具合に腐食がすすんでいます。歩き回って穴にもぐったり、適当な産卵場所を探しているのでしょう。一年間の彼女の生涯にとっては、総仕上げのだいじな作業だと思うと、なんとなく真剣さが伝わってきます。


アカハナカミキリ、どこにでもいる見慣れた虫ですが、キーボードに「あかはなかみきり」と打ち込んで変換すると「赤鼻噛み切り」となりました。まるで違うなんだか妖怪の名前かと、どきっ! 君の知られざる正体は?・・なんて事はありませんね。カンタンの声はあいかわらず聞きませんが、夕方コオロギが一匹、この丸太の近くで元気に鳴いていました。昨日の仕事は、オーダーされた酒器制作の続き。いくつも並べて同じ作業を順番にこなしていても、それぞれどことなく表情が違っています。作業の微妙な加減と、その結果生じる表情の違いを検証し記憶しながら仕事を進めていきますが、最終的な出来映えの評価は仕上がってから。特に、展示してからお客様の評価が重要です。全工程を動画で記録すれば、仕上がりの微妙な違いが工程のどこから生じるのか検証できるかもしれませんが、しっさいには作業場に監視カメラを置くような事にはならないでしょう。

d0164519_09553349.jpg台風10号で多くの被災者を出した岩手県岩泉町の行政に対する批難・バッシングがたくさん寄せられているようです。まだ現地が対策に追われている時点での、感情的評価と批難は、災害の軽減にも再発の予防にもつながらないでしょう。批判者はただ、自分の感情の暴発先を探し、正義感を満足させているだけと思われます。災害発生の当初から時系列的な記録と検証の繰り返しは重要ですが、それは現場から少し離れた位置にいる、様々な専門性を有する人達によってなされることではないでしょうか。現場はそのとき最善と思う作業に全力を注ぐ事しかありません。現場ではしばしば、対策作業者自身も被災者である場合が多いでしょう。価値観をともなう評価や今後の対策のあり方は、災害が終息して、多くの事実が明らかになってから考える事です。「喉元過ぎれば・・・」で、時間が経つと記憶が薄れて反省しない、日本人の精神風土にも問題がありそうです。


[PR]

# by maystorm-j | 2016-09-06 09:58 | 自然 | Comments(0)
2016年 09月 01日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その9
前の記事で、「消費する」ことを人間の本質とすると、社会はどう見えるだろうかを書きました。華やかな広告宣伝が溢れているため、生産される消費材がいかにも多様で新しい技術・機能を更新しているように見えます。しかしその中で、暮しを画期的に変えた消費材は、洗濯機、冷蔵庫、電気釜、クーラー、車・・・昔は「三種の神器」と呼ばれた、10年に一度ぐらい登場するものだったような気がします。それらは多くの「消費するヒト」が普遍的に欲しがるものです。
d0164519_09055156.jpg
暮しのこまごまとした情景でヒトは、それぞれ個性的で多様な消費を必要とします。年齢によっても、社会内の役割によっても、住んでいる環境によっても消費欲求は異なります。もちろん、病人や障がい者にはそれぞれ必要とするものが異なります。さらにヒトにはそれぞれ好みがあり、それも日々変わるでしょう。消費行動が多様で個性的で、しかも変化する事が生産を変化させているとも言えるでしょう。

そのように考えると、生産の大きな流れは本来、「消費するヒト」のオーダーに沿って方向づけられて来たことになります。新自由主義的生産は、生産者の都合で作られる大量消費の押しつけですので、「消費するヒト」の要求を満たすものとならないのは当然です。生産が「消費するヒト」を支配してしまいます。宣伝によって幻影を見せられ、使用すればじきに幻滅を感じ、その頃には壊れたり古くなったりで廃棄され、次の幻影に向うようにしむけられた消費です。

私は一度も組織に属する事なく、消費者と向かい合いながら一人でもの造りを生業にして来ました。製品価格は量産品の10〜100倍。買って下さる人の期待値に充分応えてきたかどうか、とても気になります。オーダーされる人の希望は、用途・機能、大きさなどの具体性はもちろん、形の印象や好みなど心理的な部分もあります。どっしりと重量感があるものが要求される反面、年齢とともに弱る筋力に合わせて軽く、持ち易くという要求も多く出されます。オーダーメイドなら当然の事です。展示会のために造りためるものも、時間と能力の許す限り多様にと心がけます。世の中には何か勘違いして「俺様の造るものに文句があるならあっち行け」みたいに威張る職人がときどきいます。修理できない「手作り品」も多く見られます。

規格化された大量生産大量消費に対抗する生産として、カスタムメイド、テーラーメイドなどともよばれる消費側が主導する生産が見直されても良いのではないでしょうか。子どもの頃、下駄屋や服屋は消費者に合わせて最後の仕上げを調整したり、修理や仕立て直しをやっていました。魚屋も肉屋も希望に応じてその
場で捌いたり切ったりがあたりまえでした。量産品でも、特にプロむけの道具に今でも多く見られますが、使用者自身あるいは販売者が調整を可能にする造りの製品があります。マイコンが作動を制御する製品は、人による調整が出来ないものが多いようです。

オーダーメイド生産において、すべての人に一定の消費する権利を与えるなら、消費するヒトが多様で個性的である程、生産は多様で個性的になる可能性があります。高齢者、病人や障がい者は新しい製品を産み出す原動力となります。むしろすべての人がマイノリティーであるという前提に立つことで、消費主導の生産へと再転換するのではないでしょうか。
(つづく)

[PR]

# by maystorm-j | 2016-09-01 09:06 | 社会 | Comments(0)
2016年 08月 31日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その8
前々回の記事で、働かない働き蟻の話をしました。ナマケモノの存在を認めるという事ですが、社会にはナマケモノではないが働けない人が大勢います。医療の発展と人口構成の高齢化にともなって、ますますそれは増えていくでしょう。ダーウィニズムから派生した優生学が復活する社会的背景は強まっていくことになります。現実の社会で「働かない人」が増えて行くなら、労働と言う物差しで人を分類する事から離れてみたら、世の中はどのように見えるでしょうか。d0164519_08402893.jpg

動物はどうあがいても、植物のように体内で太陽エネルギーを使って無機物を直接栄養に変換することができません。外から取り込んで消費する事で命を維持する生き物です。もちろん人間とて、いや人間こそがその最上段にいる生き物だとしたら、「消費する」事を人間の普遍的な本質に据えて考え直してみたら、いかがでしょうか。消費することで人間の命が維持されて、現在の繁栄を築いたのであるなら、等しく人間に命を維持するための「消費の権利」を与えたらいかがでしょう。農業革命や産業革命という生産の高度化で社会が発展してきたという考え方に疑問符をつけてみたいと思います。

複数の母系で構成され、年老いたメスザルから何代もの母〜娘が共存するニホンザルの社会を見ていると、ボスザル優位社会や父親優位家族とは異なる社会が見えてきます。ニホンザルの群れは100頭前後まで維持が可能で、それ以上になると母系集団単位で分裂するか、少数のメスを核に10頭前後が分離していくようです。サルの仲間では最も高緯度地方に住んで、厳しい自然環境に適応した社会構造を作っているのかなという気がしますが、一つの生物を例として、ご都合主義的に取り上げるのは危険かもしれません。

採集狩猟社会で人々が栄養を獲得するために使う時間は、農業社会に較べると少ないと言われています。農業を導入したことで、人間はよりたくさん働かなければならなくなったということになります。世界各地の文明で農業は5,000年ぐらい前に発達したと言われています。農業、特に穀物生産によって出来た富の蓄積が、貧富の差を生み、権力構造を作り出したと言われています。本当にそうでしょうか。5,000年前といえば日本列島は縄文文化の社会です。4万年前に始まった日本列島の人間社会は、当初から舟を利用し、かなり広域の交易が行われて来ました。けっして小さな地域内での採集狩猟だけで生きてきたのではありません。5,000年前に揚子江周辺で水田稲作が発達すれば、それは日本列島にも伝わったと考えられます。縄文中期にはクリや雑穀栽培が行われ、農業は部分的に取り入れられていました。

では、なぜ生産性の高い水田稲作が、大量の人口と権力社会の流入が見られた弥生時代まで普及しなかったのでしょうか。大量の労働を必要とする農業を縄文人が嫌ったと考えられないでしょうか。社会の中の働かない人にも栄養を分配するには、採集狩猟生産の方が向いていたと考えられませんか。蓄積しにくい採集狩猟生産は、消費が主導するシステムと考えられます。農業が蓄積を産み、蓄積が権力を生み出したと考えるより、社会の拡大と構造の複雑化、権力の発生が農業をなかば強制したのではないでしょうか。権力を維持し、外部の権力と競争するために農業が必要とされた。今も多くの人が縄文文化に憧れたり郷愁を感じたりするのは、縄文社会が持っていた豊かな精神性、その底流に命の維持をめざした消費に導かれた労働が持つ余裕を感じているように思います。   (つづく)

[PR]

# by maystorm-j | 2016-08-31 08:49 | 社会 | Comments(0)
2016年 08月 25日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その7
先日学習会の折り、「明治以降の近代化の中で自我が芽生え・・・」「それ以前の日本文学には小説がなく、源氏も小説ではなく物語り・・・」という趣旨の発言がありました。森鴎外や夏目漱石にいたって、初めて近代的自我を描くようになったというお話をd0164519_05362161.jpgよく聞きます。さて、自我のない人間ているのでしょうか。それ以前は、中世封建社会的身分にとらわれていて、「個人」という意識がなかったと言うのでしょうか。昔は「自我のない人間」ばかりだった? 女性はみんな、親の定めた見ず知らずの武将と政略結婚させられた? 与謝野晶子が初めて異議を唱え、漱石や鴎外が初めて「悩んだ」??よく言われる話ですが、ちょっと立ち止まって考えれば、そんなはずはないと気づくでしょう。

漱石は確かにおもしろかったが、一緒に悩んで血を吐くなんてあり得ない。高校生時代、当時は亀井勝一郎だの芹沢光治良だのが「良書」として勧められていたが、バカバカしくてやってられないという感じ。「自分とは? 他者とは?」と観察し考えるのはいいが、他人に成り代われないのだから悩む事ではないだろう。むしろ、宇治拾遺物語のように、人間一人一人を意地悪く観察し、笑いのめして明日から少し違う生き方した方がいい。

よく「自分にそっくりな人間が世界には3人いる」と言われたが、逆に言えば、3人以外は何十億人みんな違うということだ。毎日鏡を見ながら、自分の容姿を悩んでいる若者もいれば、ニキビをつぶしている若者もいるだろう。人間の精神というものにはどこか、「普遍的な同調面があるはずだ」とか「社会の進化にともなって精神も進化する」という信念があるらしい。社会は確かにこの2000年、大きくなり、複雑になり、高速化してきたが、進化したかどうかは怪しい。人間の能力のうち、かなりの部分はむしろ退化しているように感じます。一人で、あるいは家族や少数の集団内で問題を解決してきた古代人より、複雑で細分化された社会に問題解決を委ねている現代人の方が、はたして個人の能力が進化しているのでしょうか?

生物学の周辺をうろつきながらも、若い頃からダーウィンの進化論,特に「最適者生存」絶対信仰に疑問を感じていました。簡単に形態を変化させにくい動物と違って、植物は、その環境における「最適者」以外にも、他の環境で繁栄している植物がかなり形態を変化させて侵入しています。生き残れるかどうかは、最適な変異を持っているかより、偶然に支配されているか、化ける(遺伝子的にではなく形態の変化を我慢できる)能力の高さではないかと感じている。自然が最適者ばかりで構成されているなら、強力な外来種に占有された生態系のようなのっぺりした景観ばかりになりそうです。そんな事をある現役の研究者にちょっと話したところ、「中立進化論ですね」とあっさり言われました

ダーウィン進化論の訂正ないし修正として1960年代後半に登場し、70年代にはほぼ確立、その後も遺伝子レベルでの検証が進んでいる新しい進化論。うかつにも、私はそれを知りませんでした。受験生物学・大学一般教養の生物学を終えた直後に登場したもので、進化に関係する分野を選んでいれば当然知っていたでしょう。あわてて、関係する本を何冊か購入し、ネット動画で最近の受験生向け生物学講義を聞きました。私が昼寝を貪っている間に、進化論は自身の一部を自己否定する形で進化していた。ヒットラーの時代、ダーウィニズムを否定するのは反動側の人達で、最先端の科学者・医者達は喜び勇んで優生学の実践にかかわっていた。現在も、倫理的側面から優生学を否定する事はあっても、生物学の側から明確な乗り越えがなされていない。今や科学はダーウィニズムの検証、修正、新しい進化論の時代になっていると言うのに、ダーウィニズムに依拠したままでその応用実践を批判しなければならないという無理です。とりあえずダーウィニズムも不動の真理ではなくて、「ああ良かった!」

いろんな専門の研究者の話を聞いたり議論する機会があります。最近は、専門外の話をする引退した専門家も増えている。学際をこえた総合的な話はおもしろいのだが、専門領域では引退後も最新の研究に注目していたとしても、まったく別の領域になると、その知識は本人が大学受験した半世紀も前に仕込んだままかもしれません。自分自身が学び直すという気でいないと、カビが生えたものをさも美味しいだろうと配っているようで怖いですね。今日は本題から脱線したままですが、アベノミクスもずいぶんと賞味期限切れの論理を振り回して、余計なおせっかいを焼いているようです



[PR]

# by maystorm-j | 2016-08-25 08:06 | 社会 | Comments(0)
2016年 08月 23日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その6
一昨日、追分で知り合いが主催した学習会の参加しました。喉の痛みと咳き込みでぼっとした頭だったため、一日間違えて予定の演題は既に前日終了していて、その日は「量子力学の世界観」。体調不良の身には重たい内容です。良くある括りですが、西洋は一神教、東洋は多神教、日本の仏教も多神教、神道も万物が神であるとされていると、語られます。神道についてみると、縄文から続くアニミズムと卑弥呼以降古墳時代から律令国家成立にかけて組み立てられた天皇中心の祖先崇拝はまったく異なるものではないかと思っています。天照大神が西洋の神と同じ位置づけと言うのではなく、「万世一系」神話に補強された天皇の系譜が一神教的存在なのではないでしょうか。自然神とはまったく異なる神の存在です。唯一神としての「天皇」に従って営まれるマツリゴトと、マツロワヌ人々の征服が繰りかえされます。本地垂迹説による仏教からの補強もあって、その後の日本は中央集権官僚制でも地方分権武士制でも、決定的な世界観の分裂が防がれたのではないでしょうか。
d0164519_05361214.jpg
話がそれましたが、その後の歓談の場でベージック・インカムについて提起してみました。B.I.の話をすると必ず起きる反応が「ナマケモノが増える」という懸念。実際はやってみなければ判らないのですが、生活保護受給者に対する「ナマケモノ・バッシング」に憤る良心派の人々も、全員に一定額の支給をと言うB.I.に対しては「ナマケモノ」問題を持ち出します。困窮者や障害者に対する給付は、結局特別に気の毒な人への救済策と考えていることになるでしょう。これでは、もらう側は肩身の狭い思いから抜けられません。話は簡単で、全員がもらえば解決します。保護費の捕捉率の低さを気にする事もなくなりますし、窓口で嫌な思いをする「水際作戦」もなくなります。生活基礎資金ですから、介護費用や医療費、特別な生活用具などは別に支給すれば、その金でパチンコしているのではないかと下司の勘ぐりもなくなります。

さて、ナマケモノをどうするか。何時の世もどんな社会にもナマケモノは存在すると割り切る事です。私の周囲のもいろいろいます。おだてたり、なだめすかして働かせてみても続きません。その面倒を見ていると、こちらが足を引っ張られますので、ほっておくのがいいでしょう。せっせと働いているように見える働き蟻の中にも、一定の割合でナマケモノが存在すると言う研究が話題になりました。
ナマケモノはスペアとして必要だという主張です。しかも、個性ではなく、集団の一定の割合が自動的に怠けるらしい。働き者ばかり、あるいはナマケモノばかりの集団に再構成しても、一定の割合が怠ける。もちろん、複雑な社会構造と多層的な他人の眼にさらされる人間社会にそのまま当てはめられものではありませんが、試してみる価値はありそうです。役場に行くと2〜3割の良く働く人と、まあまあ給料分は働いていそうな人、そして一定の割合のナマケモノ。ナマケモノばかりの部署を作ったらどうなるでしょうか。住民の命にかかわらない行政の分野で試してみたい気がします。

もう一つ、B.I.の話をすると必ず出る反論が財源問題です。たとえば月5万円を1億3,000万人に配ると年間 ¥50,000x130,000,000x12=¥78,000,000,000,000
78兆円ですね。これについては、また別の稿で書いてみたいと思います。



[PR]

# by maystorm-j | 2016-08-23 08:47 | 社会 | Comments(0)
2016年 08月 21日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その5
お盆の15、16日、仕事場の隣、公民館の駐車場で盆踊り大会がありました。隣組の役員ということで、焼き鳥の係に。前日から解凍した焼き鳥が、大型の食卓上に30cmの高d0164519_04070265.jpgさで積まれ、盆踊り開始の3時間前から焼き始めます。中国製。焼きぐしに刺した状態で一度茹でるか蒸すか、火を通して冷凍輸入。盆踊りの混雑を予想してあらかじめ一度焼いておきます。大会が始まる7時から終る9時まで、もう一度味をつけて焼き直し。いくら熱々でも、3回も焼けば美味しいわけはありません。それを2本100円で売るのですから、もとの価格はいくらなんでしょうか。炭で焼けば美味しくなるというものではありません。ブロイラーの胸肉はしょせんバサバサしています。1500本だか3000本だか焼き続けて、煙で喉はガラガラ。2日後に会った人達からは、隣でドナルドダックがしゃべっていると言われる始末で、4日経っても回復しません。

しばらく戯れていたモンシロチョウとスジグロシロチョウは、勘違いに気づいて分かれて行きました。この集落は、戦後満州から引き上げて開拓に入った人達によって作られました。当初は極貧の厳しい暮しで、盆暮れ正月、支援する教会のクリスマスは、子どもに限らず大人にとっても指折り数える楽しみだったに違いありません。軽井沢の歓楽街のような華やかさはありませんが、いまは落ち着いた山里のたたずまいとなっています。生前はさぞご苦労したであろうご先祖様を迎える年に一度の時に、きっと薬づけの美味しくない焼き鳥をその子孫の子供達に食べさせるのか、まったく理解できません。集落の外れにある国際高校から100人ほど、外国の少年少女も「ボン・ダンス・パーティー」に参加しています。日本人は、「ハレの日」にこんなものを食べているのかと、恥ずかしいばかり。

軽井沢の夏、多くのリタイア組はグルメ気取りで飲食店を徘徊しています。金と暇のある人相手の商売ですから、美味しさ以上に価格は上がる。彼らには江戸時代のご隠居の節度はない。それでも何軒かの蕎麦屋は、まあ価格以上の味と雰囲気を提供していますが、ヨーロッパ風の店には近づかない事にしています。美味しいものは、これから文化を創る若い世代に回した方が良い。社会全体を豊かにするために、彼らの感覚を洗練させ、その再生産力に期待しよう。後期現役世代はバーベキューが好きです。ガツガツ喰らいガブガブ飲む雰囲気に馴染めず、私は出来るだけ逃げ回ってきました。ビールは一缶飲めば充分、後はただの発泡液体。齢とったら、たまのハレの日に「一点豪華」がいい。

生産モデルを変更しないまま、お金をジャブジャブ刷って価格を上げようとしても、結局は低コスト・低品質・低価格・低満足の「負のスパイラル」から抜け出られず、安物を求めてアジア・アフリカから輸入し、国内生産は落ち込むでしょう。アベノミクスや新自由主義を批判する側が、分配の不平等ばかりを述べて、新しい生産モデルを提示しないのは、明らかに怠慢です。反対できればいいと思っているようです。人民=プロレタリアートが安く買えればいいとする発想を捨てて、高品質・高価格・高耐久性・高満足の生産と消費に移行し、蓄積を増やすモデルが必要です。たぶん、それを裏から支えるのがベーシック・インカムではないかと思います。 (続く)



[PR]

# by maystorm-j | 2016-08-21 05:12 | 社会 | Comments(0)
2016年 08月 16日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その4
数年前から昆虫が少ないと書いてきましたが、今年はセミの声もほとんど聞きません。
d0164519_06542359.jpgセミは土の中で何年も過ごすので、少ない原因が何年も前の卵産みつけられた年にあるのか、今年羽化する時にあるのかが判りません。毎年成虫が卵を産んで翌年成虫になる昆虫や、蝶のように年何回かそのサイクルを繰り返す昆虫の場合は、減少した原因は去年か今年にあると言えるでしょう。

梅雨が長引いた分、8月初旬は暑くなりました。しかし、気圧配置は夏型にならず、太平洋高気圧が発達しないまま、日本海側や黄海に高気圧があります。中旬に入って、特に朝晩は冷え込んで、一昨日は15度。寒暖差が大きいと、果物や野菜はおいしくなるかもしれません。

前の記事に書いた岩手の友人は、軽井沢に海がないのでと、魚を運んできました。去年は食べ切るのに1週間(半分は干物にして)かかったので、今年は一日で食べきれる量にと前もって伝えておきました。それでも刺身用にヒラメとアジとイカ。初日は確かに新鮮ですが、翌日に残るとこちらのスーパーの方が・・・。その他にアンコウが丸ごとあって、一部は唐揚げで食べましたが、残りは鍋に放り込んでとりあえず加熱。その後2日がかりで片付けました。気になったのは、そのアンコウの値段。こちらでたまに売っているものに匹敵する大きさですが、季節はずれのせいかそれが300円。冬場なら2〜3000円の価値があるはずです。

以前、日本とノルウェーの漁業について書かれた勝川俊雄さんの本を読んだ事があります。乱獲による資源の枯渇が懸念されている日本の漁業に対して、漁獲量と捕獲サイズ、販売地を合理的にコントロールするノルウェーを比較して、警告を発するものです。高い価格で売れるものを獲り、最も高く売れる場所で売る事を、各個人の漁業者がインターネットを漁船上で駆使しているのがノルウェーの漁業だというのです。高く売れるものというのは品質が良く、高く売れる場所というのは需要があると言う事でしょう。成長し切っていない小さな魚は価格が低いので、売り上げを維持するためには大量に獲らなければなりません。乱獲が起きて資源は減り、魚体はさらに小さくなり、低品質低価格大量生産の悪循環に陥ります。自然生態系からの略奪生産では特に、この負のスパイラルを避けるシステムが必要です。ペットフードにしかならないものを獲っているのか、あるいは人間がペットフード並みのものを食べているのかもしれません。

1億3000万人の人が食べていくためには、大量の生産が必要ではあります。人口が20分の1以下のノルウェーとは比較できないと言われるかもしれません。しかし、統計の取り方によって違いがあるかもしれませんが、日本の食料廃棄率はアメリカより高く世界一ではないかと言われています。野菜など流通する以前の生産現場における廃棄を考えると、さらに多くなるのではないでしょうか。売れないものを作っては捨て、獲っては捨てていたのでは、いくら生産量が上がっても社会は豊かにならないでしょう。暮しの豊かさにつながらないものを消費していると、常に満足感のない精神的な飢餓状態に陥りそうです。多様で生産力の高い海も畑も森もあるのに、その機能を充分に活かせていません。グローバルな資源と労働の略奪による大量生産大量販売ではない、身近な環境と資源、質の高い労働力によって高い満足を持続できる生産と消費・蓄積に切り替える事が必要でしょう。
(続く)



[PR]

# by maystorm-j | 2016-08-16 07:23 | 社会 | Comments(0)
2016年 08月 08日
夏山を歩く・・・高峰高原車坂峠から浅間山湯の平と外輪山周回
d0164519_20361250.jpg
岩手から友人がやってきて、翌日は山歩きすることに。ついた日の午後、軽井沢案内、産直見学、そしてアウトレットで山靴とヤッケを購入。高齢初心者で、足許と防寒雨対策だけは命にかかわるので、少し奮発してもらう。靴は革でゴアテックス、ビブラム底。あきらかに実力以上の道具だが、道具の性能が力量を高めてくれることもある。ヤッケもゴアの赤。目立った方が良い。まとめて買ったので、たぶん正価の4割引以下だろう。これからの一生使える事を考えると、いい買いものだと思う。アウトレット街の良さは、4〜5軒の店を一度に見比べることが出来て、妥協しないですむ事だ。底の柔らかいトレッキング用はいくつかあったが、明日は岩場が多いので、一点で支えられる硬めのものにする。

d0164519_20460549.jpg
標高2000mの車坂峠を7時出発。靴がいいので、勝手に足が前に出ると言う。順調に黒斑山トーミの頭まで登る。さて、そこでコース選択に迷う。そのまま外輪山を行けるところまで行って戻るのが初心者向けだが、天気は最高で、夕立と雷はなさそう。靴の良さ、天気の良さ、何よりも腹回りに蓄積されたエネルギーを信頼して、長距離周回コースに挑む事にする。という決断で、いきなり草すべりを急下降。登りよりペースが落ちたので、ちょっと気がかりだったが、後で「高所恐怖症」と判明。縦走の前半は岩場と崖が多く、それは大きな誤算でした。

なんとなくへっぴり腰で下り切って、湯の平はずれの山小屋でおにぎり。だらだら登りで湯の平を突っ切る間は、快調な歩き。登りの方が調子いいのも、いい具合に進んでいる時には不思議に感じないものだ。手も使わないと体が確保できない岩場の登りになると、がくっとペースが落ちる。ジャングルジムで遊んだ事がないのかもしれない。ゆっくりだが何とか尾根に上がって、縦走開始。ゆるい上り下りでもペースが復活しないのは、どうやら左側につづく崖が怖いからのようだ。現在の浅間山より高かった黒斑山が、23,000年前に崩壊して、麓を25km先まで埋め尽くした時の、残った部分が外輪山の崖。確かに落ちれば命はないが、びくびくしていると却って危ない。

岩場が終ってもそろりそろりと歩いているのは、今度は脚の筋肉疲労のようだ。飴とチョコレートでごまかして、何とか下り切る。全行程8時間、まずます、初心者としては上出来だ。夏の週末で登山客が多く、へばってぶっ倒れていると格好がつかない状況だったのも幸い。靴選びが良く、靴擦れやマメが出来なかったのも、体力の限界まで歩けた一因だろう。初心者を連れて行く場合は、3人以上のグループが良さそうです。

[PR]

# by maystorm-j | 2016-08-08 21:38 | 遊び | Comments(0)
2016年 08月 03日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その3
d0164519_21071968.jpg
都知事選挙の結果は、予想されていた事ですが、野党統一候補惨敗に終りました。有力3候補にしっかりした政策の違いや、他を圧倒する人格的な良さがあったとは思えず、都民の「意識」と言うより感覚的な流れの表れという気がします。野党側に、統一候補を立てればなんとかなると言う甘い誤算があった事は言えるでしょう。参院選一人区で善戦したという判断が背景にあります。

参院選での野党共闘は、県ごとに内容も候補者も違いますが、私のところでは共闘がすんなりと進みました。しかし、候補者の人格にも政策も精査されることはなく、手ごろな人という印象が強かったのではないでしょうか。私はむしろ「僕ってぴったりでしょう」とにやけ顔で登場した統一候補に卑しささえ感じられて、しぶしぶ投票しました。お手頃感のある候補者探しではなく、政策をしっかり持ち政策実現の道筋を提示できるプロの政治家が必要なのではないでしょうか。野党政党にその役割を期待できなくなって、既にかなりの年月が経ちます。特に「経済の土俵」では、富の分配に対する不平不満を述べても、富の生産に対する対抗政策はまったく提示されていません。富の生産を考えるという意識すらなさそうです。

ソビエトが崩壊してから四半世紀が経ち、壮大な生産と分配の実験が失敗に終ったにもかかわらず、それに替わる経済のシステムが提案されていません。グローバル資本による低コスト低価格大量生産販売と金融資本を中心とする分配の自己責任論を軸に新自由主義経済が席巻してきました。左翼リベラル側はその分配の不公平に対する不平不満を述べてきました。しかし、賃金による分配要求は正規労働者の体制化と非正規労働拡大で、分配の公平を得られていません。福祉による補整も、生産が伸びす、賃金も増えない中で、財源がありません。軍事費を福祉にまわせという主張もありますが、その場合は国の安全保障を根底から議論して、国民のコンセンサスを形成する必要があります。昨年の安保論議では、法制の手続き論に終始して、安全保障の理念的議論はなされませんでした。

町の保養施設でサウナに入りながら、何人かの年輩者と都知事選について話しました。その中で、これまで一番安保法制やTPPの批判をしてきた一人が「小池さん頑張っているね」と言い出してびっくり。私以外の3人はインターネットを見ないのですが、その人は長年教育関係の仕事をしてきました。1970年代の東京、横浜、京都、大阪などの革新自治体世代です。小池氏が、ボスと利権の自民党に対抗する「革新」候補に見えたのでしょう。東京都民の若い世代、無党派層、民進党や共産党支持層の一部など、小池氏の得票を押し上げたのは、意外な事に「革新」を望む意識だったのではないでしょうか。
(続く)

[PR]

# by maystorm-j | 2016-08-03 21:11 | 社会 | Comments(0)
2016年 07月 26日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その2
前回、経済とくに新自由主義経済に対するオルタナティブとなりうる富の生産・分配という一貫したモデルを提示しない限り、人々は「正常性バイアス」心理からだまされ続けるだろうと言うことを書きました。生産・分配さらに富の蓄積を含む大きな提案が求められているのではないでしょうか。ケインズもマルクスも読んだ事がない私にとって、経済と言うジャンルはほとんど未経験です。もちろん、データに基づく経済学的解析や展望が出来るはずはありません。しかし、経済活動は社会環境における人間集団の営みである以上は、生態系における生物群集の営みと同じような視点で考えて見る事も出来るのではないかとという、ちょっと無謀な試みです。d0164519_07074145.jpg

生態系内では、主に植物が環境資源を取り込んで有機物を生産し、主に動物がその有機物を消費しながらリサイクルします。生態系内にはその総量=バイオマスが蓄積されていますが、その一部は主に微生物などにより分解されて、リサイクルされたり、無機物に戻されます。生産者が多彩で安定的なほど、消費者も多様で安定すると思われます。単一樹種が多い尽くす寒冷地の森など、量的豊かさがあっても、質的には貧しい生態系と感じます。そんな視点から現在の経済を眺めてみようと思います。


敗戦後の日本は世界有数の経済成長を経験しました。その要因はいろいろ言われますが、間違いなく暮らしは豊かになりました。生産が増えれば消費者がふえて、さらに生産者が増えるのが自然ですが、経済成長率が下がる前に、人口増加率が下がり、それが「成熟した社会」だと言われました。生産が増加し消費者が増えなければ、いっとき蓄積が増えて暮しは豊かになりますが、その後にくるのが「ものあまり」時代です。国内消費が飽和状態になり、生産と消費を海外に求めることになります。安い労働力と量産効果に頼るコストダウン、価格競争、新製品開発競争がむしろ製品の質を落として、負のスパイラルにはまってしまったのではないでしょうか。

最近、食料品以外の買いものは量販店に行く事が多くなりました。どこでも広い店内に大量のものが並んでいますが、来客数も店員も少なく、店員の丁寧な説明を期待することはできません。広い店舗と大量の商品を維持するコストの割には1商品あたりの利潤は少なく、人的サービスまでは捻出できないのでしょう。

付加価値の小さな富を大量に生産するシステムでは、複雑で長距離の流通と大量の消費者を必要とし、生産に使われる資源や労働量、流通のコストに較べて利潤が少なくなります。利潤率が下がり、賃金を下げれば消費力が下がります。いっとき海外に市場を求めても、そのうち海外でも同じ負のスラパイラルが起きるでしょう。ワーキングプア、移民労働力、失業、いずれもこのスパイラルの中で起きてくる問題です。貧困層のために安い製品を大量に作る事では、そこから脱出できるとは思えません。貧困層を無くす事、それを富の分配のみに頼らず、これまでとは異なる富の生産・分配・蓄積のシステムで豊かになる方法を考えなければならないでしょう。
(続く)



[PR]

# by maystorm-j | 2016-07-26 06:48 | 社会 | Comments(0)
2016年 07月 23日
アベノミクスに人はなぜ騙されるのか/経済の土俵で闘う事が必要 その1
参院選挙が終って、しっかりとした反省がなされないままに、今は東京都知事選挙に関心が移っています。政権交代後、何度も選挙で敗北を経験しながら、敗北の原因をしっかりと検証する事なく、d0164519_07310870.jpgいよいよ改憲の鳴動が聞こえるようになってしまいました。

原発再稼働、安保法制など、個別の問題では政権に批判的な声が世論調査で確認されながら、選挙となると毎回与党側の勝利になるのはどうしてでしょうか。不正選挙だとか、小選挙区制度の問題だとか言っていても、選挙で勝たなければ不正をただす事も選挙制度を変更するのも難しいのが現状です。

選挙になると安倍政権はアベノミクスを持ち出します。焦点は経済発展と国民の暮しだと、土俵を設定します。この3年あまり、アベノミクスによって暮しが良くなったかと言うと、数字はその逆を示しています。にもかかわらず、なぜ与党が勝つのか。世界中で、新自由主義経済が人々の暮しを良くする事はないと言われながら、なぜ国民はアベの政治を否定しないのか。批判して来た側の弱点、オルタナティブを示せていない事について、経済を中心に考えてみたいと思います。

経済という分野は、私が最も苦手な分野の一つです。これまで、リベラル側(この分類もネオリベラルに対抗するものとしては不適当な気がしますが)からの批判をたくさん読み聞きしてきました。その主張の中心は、富の分配の不公平を論ずるものです。「1%対99%」という図式がその典型です。賃金制度による公平化、税制による調整・再分配、福祉による補整。いずれも、富をどのように分配するのかという視点です。「パイをどう切り分けるか」という問題に集中しています。

一方で、新自由主義の側は今も「パイを大きくする」事を主張しています。国民に向けて「あなたはパイを大きくする事に参加しますか。大きくすれば、あなたもたくさん食べられますよ」と呼びかけています。それに対して、新自由主義経済は必ず崩壊するという認識がある批判側の主張は、正常性バイアスの心理から入り口ではねられてしまいます。崩壊に直面する前から、崩壊予想に基づいて反対する人は少ないようです。この時点で、すでにアベ政治に負けているような気がします。多くの人は、明日もこれまでの暮しが続く、努力すれば少しは良くなると思いたいのです。それがウソでも、あるいはパイにありつけるのがたとえ1%だけであっても、新自由主義はとりあえず「富の生産と分配」を結ぶ主張をしています。そのシステムでは、多くの生産資源が奪い取られ、多くの労働力が使い捨てられ、多くの質が悪い量産品があくどい宣伝で売りつけられていようと、システムの中のどこかに参加していると思いたいでしょう。崩壊を予期しながらも分配を要求するという組み合わせは歓迎されません。だまされるという仕組みはこうして出来上がっていきます。

新自由主義が「富の生産と分配」を述べているのにたいして、富の分配に対する批判のみにとどまっていては、勝てないのも当然です。次回は、この点をすこし掘り下げてみたいと思います。

[PR]

# by maystorm-j | 2016-07-23 08:54 | 社会 | Comments(0)
2016年 07月 22日
上田 暁子 個展  酢重ギャラリー 7月20日〜8月8日
夕方から夜半の雨。昼間も霧雨で寒い夏です。梅雨前線もはっきりせず、梅雨が明けると言うより、梅雨が消えて周期的に不安定な天候がそのまま続くのかもしれません。現在、旧軽井沢ロータリーの酢重ギャラリーで開催中、小諸市在住の若い画家さんです。
d0164519_20271799.jpg

[PR]

# by maystorm-j | 2016-07-22 20:27 | 遊び | Comments(0)
2016年 07月 02日
かやぶきの家 展  今日から宇都宮市大谷で
d0164519_21000459.jpg

[PR]

# by maystorm-j | 2016-07-02 21:02 | 暮らし | Comments(0)
2016年 07月 01日
月1日〜18日 酢重ギャラリー「鈴木りんいち 本田あつみ」展

今日から始まる酢重ギャラリーの展示。笠間から焼き物の二人展です。作風は・・・? まずは見て、触って。一言で言うなら「自由」。器は暮しの使用に耐えるどころか、無理なく凌駕、出す力を感じさせます。さらに、価格も手ごろ。ぶらっと寄れば使って見たくなる事、うけあいです。


7月に入って、昨日は朝方ストーブを炊いた家もあるような気温。今日は一転、昼間の仕事場は31度。暖房用品はいろいろあっても、冷房はない軽井沢です。これから2ヶ月、どんな格好で仕事しようか迷います。半ズボンでは、あちこちのぶつけてキズだらけアザだらけの足に。仕上げにジュンと火傷でもしようものなら、いくら儲からない仕事とはいえ、皮膚が破けるよりは作業着に穴が開く方がましです。


d0164519_21111600.jpg


[PR]

# by maystorm-j | 2016-07-01 21:11 | 遊び | Comments(0)